ゼミの先生が文化人類学の中でも開発人類学という分野の方で、またその先生が開講している授業をとっているので、途上国開発的なお勉強を結構やっています。
実際にそういう職に就くことはないと思いますが、考え方や視点が面白いんですよね。
例えば人類学者というのは対象社会に対して参与観察、つまり自分はその社会の内部の構成員でありながら、外部者として社会を観察するという手法をとり、それによって対象社会の現状を理解し、民族誌という形で記述します。また開発人類学、つまり途上国の発展に寄与するという分野においては民族誌の記述をもとに対象社会のあるべき姿を模索し、現地の人々の気づきを促したり主体性を喚起したりという実務活動にも関与します。
こういう話を聞いていて思うのは、自分が週4回同じようなことをやっているなということです。僕は陸上同好会で選手として内部で練習に参加しながら、同時にブロック長としてメニューに取り組む他のメンバーを観察しています。内在的な視点と外在的な視点を往復しているということです。
開発人類学で扱うのは国とか村とかいった大きな単位ですが、共同体というくくりで捉え直せばサークルも開発の対象のなり得るのではないかと思います。だからこそ自分は卒論のテーマとして部活動を選んだうえで人類学系のゼミを選択したんですね。
参与観察という手法による内在的視点と外在的視点の往復、これは先頭に立ってメニューを引っ張る立場でなくとも、選手1個人として行うこともあります。PDCAサイクルに基づいてセルフマネジメントをする場面です。
Plan(練習計画)-Do(実践)-Check(フィードバック)-Act(修正)-Plan…というのは練習においても採用されうる考え方ですが、Doの部分では選手としての主観的感覚・内在的視点が、それ以外の部分では指導者的な客観的知見・外在的視点が必要になります。そしてこの「外在的視点を持てるかどうか」というところにただの選手から1ランク上がった「気づき」とか「主体性」というものがあって、それを促せるかどうかというのは指導する立場としての自分には大きな課題となります。そこに「陸上を楽しむ」という同好会が追い求める言葉の意味が内包されていると思うので、僕が短距離ブロック長としてこの課題を乗り越えられれば同好会全体の益に寄与できたことになるのではないかなということです。
そこで最近思ってた事例としてフレキハードルドリルを挙げたいと思います。フレキハードルというのは

こういう風にバーの部分がフレキシブルに動くハードルで、脚をぶつけたり上から踏んだりしても大丈夫という便利な代物です。これを一定の間隔で置いて走るというメニューをだいたい月1ぐらいでやっています。高校時代にも結構やってて個人的には好きなメニューでした。
少し専門的な話になりますが、僕はこのハードルを使って走ることによる効果を「ハードルがないかのように意識しながらも、実際にはハードルがあるかのように体が動く」ことにあると考えています。このメニューをやるとき、主観的にはハードルはないものと思って走ります。つまり跳ばないってことですね。ただのミニハードルと違ってぶつけても大丈夫なのでそういう動きができます。しかしハードルがないと意識していても無意識の部分ではやはりハードルの存在を認識していて、客観的に見るとぶつけまいとするために足を高く引き上げます。この意識と無意識の乖離こそがとても重要で、本来ストライド(1歩でどれだけ前に進めるか)とピッチ(脚の回転数)はトレードオフの関係、つまり大きく走ろうとするとゆっくり動いてしまうし、速く動かそうとすると小刻みに走ってしまうという難しさがありますが、フレキハードルを置くことで「意識の部分では脚を速く動かそうとしながらも、無意識の部分で大きく動く」ことになり、ストライドとピッチを両立したまま走ることができます。
1月~3月の練習ではこういった趣旨をすべて説明していました。「ハードルがないかのように意識しながらも、実際にはハードルがあるかのように体が動く」というのをそっくりそのままみんなに伝えていました。おそらく何言ってるんだコイツって思いながら、頭に?マークが浮かんだままやってた人もいるのではないかと思います。説明下手な僕の責任だと思います。
4月になって新入生が入ってきてからこのメニューをやるに際し、説明を削れるのではないかということに気づきました。今の説明では「ハードルがないかのように走る」としか言っていません。つまり後半部分を丸ごと削ったのです。
なぜこのように説明を削れるかというと、もう一度1月~3月の説明を見返すと「ハードルがないかのように意識しながらも」という前半部分は内在的視点、「実際にはハードルがあるかのように動く」というのは外在的視点というように分離することができるのがわかります。しかし実際に”選手”たる短距離ブロックのみんながまず意識すべきは内在的にどのように動かすべきかということです。”指導者”たる外在的視点を必要としていない限り後半の説明は蛇足になります。そして初心者もいる新入生が入ったこの時期に、蛇足になるかもしれない説明を施すことでみんなを混乱させ、本当に意識すべき点の優先順位を見誤ってはいけないと思いこのような形になりました。
これから先気づきを促す・主体性を喚起するという方向性でこの練習を続けるとすればまた3月以前のような説明をすることになるでしょう。そのときに混乱を招かないようにできるかが課題を克服できるかの第1歩となるでしょう。
ここまで書いて気づいたんですが以前に「
フィジカルリテラシー」って言葉を使いながら似たようなこと書いてたんですね。何回も書く様子を見るに上手くいってるのか不安なんですかね。
最後に、人類学の抱えるジレンマとして「観察者が対象社会に対して無条件に権威を持ってしまう」というのがあります。今書いてるようなことだって練習という時間や短距離ブロックの人々を自分の知的欲求を満たすために利用しているという見方もできてしまうし、それを権威によって無理矢理正当化させてるみたいなことだってあり得る。
考え方の押し付けにならないように、対等な視点を心がけていきたいです。