忍者ブログ

B-DIARY

筑波大生のあれやこれ。

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

2018年9月に100mで11"68を出すぞプロジェクト

桐生が9"98で走ったからなのか、日曜日に走った記録会で12"62とかいうコメントのしようもないタイムで走ってしまったせいなのか、古巣の応援に行って刺激を受けたからなのか、壊れきった生活リズムを戒めるためなのか、おそらくこれら全てが引き金となって「100mで自己ベストを出してぇ!!」なんてことを思ったんですよね。

手始めに懺悔から始めると、去年の下半期ぐらいから私生活は乱れに乱れて、帰ってきたらソシャゲを周回し、日付が変わって結構経った頃に寝て、ギリギリの時間に起きて朝飯を食わないことも多々あり、昼はラーメンを貪って仕事が終わると最初に戻り…みたいなことになっていました。
走るのも月に1,2回とかで、完全に心が離れてる状態でしたが、大会とかに誘ってくれる先輩がいたので首の皮1枚つながってるみたいな。

自己ベストを出してぇぞということで、まずは目標となる大会を決めないことにはピークを合わせることも出来ないので、とりあえずは例年9月頃に開催されている東京マスターズ選手権を目標としておきます。まだマスターズっていう歳でもないんですけど、いずれこの場で走るかもしれないですし、記録会とかだと合わせに行くモチベもあまり上がらないので…
ちなみに自己ベスト自体は大学2年のときに出した11"78なんですが、78が75とかになってもしょっぱいし喜びきれないので、0.1秒単位で更新しにいくつもりで11"68を設定タイムとしています。にしてももう5年も前の記録なんですね…

生活習慣に食事の内容にと変えなきゃならないことは山積みなんですが、一番大きなところではそもそも練習をどうやっていくかなんですよね。
走るときは近所の公園や河川敷を使ったり、筋トレしたくなったら昔衝動買いしたダンベルを使ったりと意外にモノや環境はあるので、あとはやる気スイッチをオンにするだけ…ということで、練習メニューを作ろうと思っています。
だいぶ心が離れてしまっていたのでフィジカルリテラシーもだだ下がりで、自分の体のコンディションも前ほど上手くつかめないし練習メニューのアイディアも全然湧いてこないんですが、もう初心に帰って一から勉強し直すしかないですね。ピークを合わせる大会は決まっているので、逆算して体を作って走れるように合わせていって…という漠然としたイメージはなんとか固められるのかなと。
あと後輩にちらっと話したんですけど、作った練習メニューをTwitterとかに貼って「この日にこれやりましょー」「今日これやりましたー」っていう、場所は厳密に合わせずともなんとなく同じぐらいの日時に同じことをする「クラウド部活」的なことしてみたいなという気持ちもあります。

それっぽいことをしていること自体が目的化しないように、11"68という結果にこだわってやっていきたい…ガンバロウ。
PR

疑問質問

年度も明けて2週間が経ち、新入社員の皆様におかれましては「質問する前に自分で調べろ」と「どうして聞かずに勝手にやったんだ」の狭間で社会に対する冥い感情が募りつつある頃なのではないかなと思…ったけど普通はまだ研修とかやってて実務に携わってないもんなのかな…?

ともあれ強引に話を続けますが、これ僕も新入社員側の立場だったらその日1日殺意に邪魔されて仕事どころではないんですが、聞かれる側になってみると「質問のレベルの切り分けができてるかどうか」という話なんだなと気付かされました。

そもそも大前提として現代社会では大抵の疑問ってGoogle先生に聞けば一瞬で解決出来るんですよね。おおよそ一般教養的な知識や、MS Officeの使い方・テクニックなんかは疑問に思ったら即Google先生へ。人によってはWikipedia先生かもしれなくてそこはまだギリギリセーフなのかなと思うんですけど、Yah○○知恵袋さんは先生じゃないからやめましょうね。
対して職場内での決裁フローや業務上の慣行みたいな所属先の専門性や独立性の高いことについてはさしもの先生方も答えてはくれず、ここは職場の諸先輩方のお知恵を拝借するしかないということになります。

要するにGoogleで解決出来るようなことを質問されたら「質問する前に~」となりますし、職場なりの慣行があるものをGoogle先生に聞いてしまって一般的な尺度で測って判断してしまったら「どうして聞かずに~」となってしまうんですよね。
僕なんかはもうデジタルネイティブエリートオタクなので後者のミスが割とあります。聞かずに"やってしまう"までは行かないにしろ、「聞くは一瞬の恥、聞かぬは一時間の恥」とでもいいますか、1人で閉じこもって考えてしまうせいで時間のムダを生み出してしまいがちです。

しかしデジタル(略)的には「前者のケースなんて起こりうるわけないでしょ今時の大学生なんてググってコピペでレポート書いて卒業してるじゃん」って思ってたんですけど存外そんなこともなくて、わからなかったらまず人に聞こう!っていう(略)オタクのコミュ力では到底真似出来ない処世術で渡り歩いてる人もいるんですよね。
その姿勢自体は間違ってはないし僕も聞かれたら答えるんですけど、この手の質問に答えるときに考えてることって「知識ひけらかしてドヤりたい」が2割と「これに素直に答えてちゃいけないのはわかるんだけどどう誘導すればいいかわからない」が7割、残りの1割が「もしこの先コイツが周りに聞ける人がいない・自分が真っ先に聞かれる立場になったときにどうなるんだろう…」という心配だったりします。

飢えている人には魚を与えるだけではなく魚の釣り方を教えよ、なんて使い古された言葉もあるんですけど、「魚の釣り方の教え方」は誰が教えてくれるんだよーとか考えながら糸口を模索する日々です。

心機一転

ご無沙汰しております。

年度も明けて社会人生活も早3年目と相成りました。

前回更新から先、2年目の下半期は筆舌に尽くしがたいしんどさがあり、思うところも多々あったのですが…まぁ過ぎたことなので置いといて。

最近余暇を自堕落に過ごすことが多くなってしまったのと、やはりまとまった文章を定期的に書いていないと思考力が落ちていく気がするので、今年度は少しずつでも書いていきたいです。

まだアイディア段階ですが、投資に関することとか、今期アニメに関することとか、時事に関して思うこととか、ある程度カテゴライズして書いていきたいなと思ってます。

まだまだよろしくお願いします。

ポケモンGOのある世界で

ポケモンGO、みなさん楽しんでますか!?

僕はというと配信日に即DL&4800円課金までしたところ、翌日スマホの充電端子が壊れて本体ごと交換対応になってしまい、代替機がポケモンGO非対応機種だったため正味3日ほどお預けを食らってしまい、今リアルマネーに物言わせて1足飛びでレベル上げをしているところです。端的に言うとドハマりしています。
実は金曜日会社が休みでして、その日は食事等も含め10時間どっぷりやってしまいました。

基本的な仕様の説明は公式サイトに譲るとして、世に出たあとの影響たるや、本当に世界を変えてしまったという印象ですね。最近会社帰りに遠回りして駅に向かうようになってしまったんですが、同じ考えの人とわんさかすれ違いますし、一度深夜に近所の公園に行ってみたことがあるんですが、そこでも想像以上に人がいてちょっとこれはさすがにどうなんだって気もしたりしなかったり。

いやでも本当にこのゲームはすごい。なにせポッポにモンスターボールを投げるというだけの出来事がこの上なく楽しいんです。
なぜならそれを通して僕たちは、ゲームで動かした(あるいはアニメで見た)主人公になることができてしまうんです。最初はどんなポケモンでも出てくると嬉しくて、でも少し慣れてくると草むらから出てくるポッポにちょっとがっかりする。かと思えばレアなポケモンが出てきて大興奮したり、はたまたタマゴを孵化させるために延々と同じ所をぐるぐる歩いたり…楽しいことからちょっとしんどいところまで、ゲームでやったあれこれを現実の世界で追体験できるんです。
よくアニメのフィギュアや精巧な造りの3DCGを「2.5次元」と表現することがありますが、ポケモンGOのAR(拡張現実)によって切り拓かれた世界は、これらよりも忠実に「2.5次元」という言葉の意味をなぞっているのではないかと思います。実際にはゲームの側から僕たちの世界に来てくれたわけですが、さながら僕たちがゲームの世界に入り込んでしまったような錯覚すらあります。

しかしまぁ、接触事故がどうこうといった負の側面ばかりが強調されがちで、ガチガチに規制されたり「ポケモンGOをやめるべき○○の理由」みたいな識者ぶりたい人のネタにされてしまうのは悲しいものです。
正直言うとポケモンにボール投げて捕まるかどうか見てる間やポケストップを巡ってるときに漫然と歩いてしまうときがある(猛省)ものの、ARモードのオンオフやポケモン出現時のバイブなど基本的にソフト側はかなり安全に配慮しているので、やはり使う人間のモラルが問われるものだと思います。そもそもモノが悪いみたいな話をギャースカやりたいのであれば包丁と長時間労働の方がよっぽど対処すべきなわけで。

昼夜を問わずポケモンを求めて人々がさまよい群がるこの「異常」が、果たして「日常」になっていくのか?と考えますと、きっとそんなことはないんだろうなと思います。おそらく1ヶ月もしたら「正常」に戻っていくのではないかなと。
しかし自分がゲームのポケモンをやっていたときを思い返すと、シナリオクリアとその後ちょっとを含めてもだいたいそのぐらいの期間で飽きが来てまた別のゲームに移っていたような気がするので、そのあたりも含めてリアルといえばそうなのかもしれません。



さて、自分はスポーツで飯を食っている人間なので、こういうときにもスポーツのことを考えてしまいます。

スポーツ実施率の向上というのはスポーツ屋にとって大きな課題の1つです。全体の実施率も思うように伸びず、特に働いている世代の人たちはなかなかスポーツをする時間が取れない…ああでもないこうでもないと手を尽くしてみても状況は大して変わらなかったところに、任天堂様がポケモンGO1つ世に放っただけで外を歩き回る人が劇的に増えてしまったという事実は、スポーツ屋の人間として重く受け止めなければならないと個人的には感じています。
なお、スポーツ実施率の調査ではウォーキングなども種目の1つとして認められている(H25年度調査票 Q4(ウ))ことに鑑みると、スポーツという語は競技性やルールといった点は問わない身体活動全般を指すと理解すれば良いかと思います。

とはいえ永くマインドスポーツやe-sportsの類をスポーツとして認める理由に苦慮している日本のスポーツ観では、これもゲームの側の出来事として処理されて、スポーツの側の出来事としては見做されないでしょう。なにせスマホを持って歩いてるだけですし、おおよそスポーツといえる見栄えではないかもしれません。

ではここでポケモンGOの要素の1つである「ポケストップ」に注目してみましょう。デフォルメされた地図上に様々な観光名所や特徴的なオブジェがポケストップとして表示され、それの近くに行くとアイテムが貰える。プレイヤーはこれを求めて地図上のポケストップを次々に巡っていくことになります。アイテムは5分で更新されるので実際には歩かないでその場に居座る人もいるのですが…

さて、地図を見て、自然の中を駆け巡り、チェックポイントを辿って競うというスポーツがありますね。オリエンテーリングというものは確実にスポーツとして存在しています。ではポケモンGOは?手放しでスポーツだと言い切れるとは思っていませんが、議論の俎上にすら載せないというのは明確に間違いだと言えます。

何がスポーツをスポーツたらしめる要件となるのかを考える上で、フォルクスワーゲン社の「Fun Theory」というものを紹介したいと思います。以下の動画は、「どうすれば人々はエスカレーターではなく階段を使うようになるか」という問題に対してとられたものです。



このように階段をピアノにしてしまうことで、階段の利用者が通常よりも66%増えたそうです。楽しいという気持ちが人々の行動を変えるというのがFun Theoryの趣旨なのですが、これを僕に紹介してくれた方は続けてこうおっしゃっていました。

「もしこの階段がずっと設置され続けていたらどうなるでしょうか?おそらく次第に人々は飽きていって、またエスカレーターを使うようになるでしょう。外発的な動機付けは継続につながらない、だからこそこれをいかに内発的動機付けにつなげるかが大事なのです。」

やりたいという気持ちの源泉を自分の心の内に持つことで、自立した行動に繋げられる。考え方としては陸上の400mHの為末選手の「自己愛(参考:)」に近いものがあります。
ただし、外在的動機と内在的動機は必ずしも白と黒の二者択一ではなく、あくまでグラデーションの濃淡として捉えるべきもの、どちらか片一方ではなくて、どちらもあって程度の問題であると認識すべきでしょう。個人的にも競技をやっていた実感として記録や順位、それに伴う賞賛というものがわかりやすくモチベーションとなっていたことはありますし、最近のスポーツの観念としても「スポーツが文化である」という目的論的な視点が注目を浴びるにつれて、妙に手段論的な視点を毛嫌いしすぎる傾向があるのではないかという印象があります。

配信から1週間の今はまだゲーム自体の面白さという外発的動機の熱量が大きい時期です。しかし先述のとおり人々がゲームに飽きてしまえば、熱も冷め、街を歩く人々も次第に減っていって、僕たちが思うところの「正常」な風景が戻って来てしまうでしょう。
それはスポーツ屋にとって取り返しの付かない損失なのです。もしポケモンGOがカジュアルなオリエンテーリングだとかウォーキングの発展形だとか、どんな視点にせよスポーツの側のものとして受け容れられれば、長年スポーツ屋が頭を悩ませてきた課題も一気に吹き飛んで新たな地平が見えるはずです。

そしてなんとも周到なことに、内発的動機付けに結びつきそうな要素までポケモンGOには用意されています。それはポケモンGOが仮想現実ではなく"拡張"現実という、現実とつながった世界にあることです。
拡張現実のポケモンを追い求めて辿る道のりには現実の街並みがあり、拡張現実のポケストップには現実のオブジェがある。僕もこのゲームをやっている間に、自分の家の周りにずいぶん詳しくなったり、青山通りからちょっと外れた服屋の並びというおそらく一生通る機会がなかったであろう道を通ったりしました。ポケモンGOによって導かれた現実世界の探検はとても楽しい体験でした。おそらくこの楽しさこそが、内発的動機付けに繋がる小さくも大きな一歩なのだと思います。

そしてこの楽しさに導く役割は、20年の歴史を持ち世界中で親しまれてきたポケモンだからこそ成せる業でしょう。あのポケモンが僕たちの世界にいるということのインパクト、世界中の老若男女への知名度においてこれに対抗できるキャラクターがどれほどいることでしょうか。



ポケモンGOは世界を変えてしまったけれど、それがあまりにも劇的すぎて変わってしまった世界の未来をいまいち想像しきれていないのかもしれません。しかし旧来的な価値観に囚われて変わってしまった世界を受け容れられなければ、これまでどおりの不満や課題がこれまでどおり残り続けるだけになってしまいます。

ポケモンGOのある世界で、僕たちの生活や未来はどうあるべきなのか、どうあれば今より少しでも良いと思える世界になるのか、拡張現実のポケモンから現実の僕たちへの問いかけなのではないでしょうか。

節操の無さを削ぎ落とせたなら意識高い系の世界観も悪くないなという気がしている

タイトルで語りきったので本文は省略します。

というわけにもいかないのできちんと…



■カタカナ語問題
意識高い系といえばカタカナ語みたいなとこありますよね、コミット!シナジー!イノベーション!

最近弊社の管理職世代からよくカタカナ語問題が取り沙汰されます。意味わからんから日本語で言えやと。ある人は「正直会議中意味わかってないときあるけどわかったフリしてうんうんうなずいてる」なんて言ってたりもします。

こういうのにすぐ老害ガーとか言っちゃうのは若い人の傲慢だろうし、やっぱり程度の問題なんだろうなと思います。「シナジー」ぐらいならなんとか理解してくれ頼むって感じですけど、「スキーム」とかは若干怪しくなってくるし、「グッドプラクティス」とかお前それもう「成功事例」って言ったほうが文字数も少ないだろっていうのはなるべく使わない方がいい。

ちなみにカタカナ語って若い人が使いたがるっていうのも1つあるんですけど、企業とか組織単位で使いたがりっていうのもあるんですよね。特に海外相手に仕事をすることが多いところは日本人同士の会議の中でもわざわざカタカナ語を使いたがる印象があります。日々気をつけてないと英語に切り替えるときに詰まっちゃうのだろうか、それとも日々有能アピールを欠かさないのだろうか。辟易。

自分は基本的に漢字語で、カタカナ語使いたがりを相手にするときには意識的にカタカナ語を織り交ぜるように意識しています。やっぱり日本人同士のコミュニケーションなら表意文字である漢字をベースにする方が自然なんですよね。「せいこうじれい」って音で聞いたら脳内で「成功事例」と漢字に変換して、文字の意味から言葉の意味が理解できますが、一方で「ぐっどぷらくてぃす」は音で聞いても表音文字の「グッドプラクティス(Good Practice)」にしか変換できないから、英単語の意味を知ってるかどうかの余計なワンステップを挟むことになってしまう。
その辺考えるとカタカナ語使いたがり界隈は脳内の思考のベースが英語になってるからカタカナ語で聞いたほうが理解が早いという可能性もある…のかな?日本人でそんなことはありえないと思うんですけどね。

ただまぁ漢字語にせよカタカナ語にせよ、言葉ごとにそれぞれ正確な意味があるというのもまた一つの事実なので、なんらかの状態を言い表すのに漢字語だと回りくどくなっちゃうからカタカナ語を使うというのはあると思います。「相乗作用」よりは「シナジー」と言いたいというのは許して欲しいみたいな。その辺も含めて使い分けが大事だよねっていう。



■複合で挑む
「複合で挑む」、ケンガンアシュラの大久保対牙戦面白かったですね。ケンガンアシュラは裏サンデーのサイト開設時からずっと読んでるのでここまで人気が出ると感慨深い…

閑話休題。
「アイディアとは既存の要素の新しい組み合わせ」と言うのは先人の言葉ですね。仕事をしてる中で課題が見つかったとき、所属課の文脈や暗黙知をベースに考えがちになってしまうんですが、別の課のノウハウや異業種の知見、大学時代に見聞きした概念・分析枠組み等々から解決の糸口を見出せないかというのはなるべく意識しています。
それはおそらく母の「物事は前からだけじゃなくて上からも横からも見るんだよ」という言葉の影響もあるんだろうなと思います。1つの物事については色々な視点から見るようにするんですけど、それに夢中になって視野が狭くなるのが自分の短所…というのはまた別の話。
また、国際総合学類の「国際問題の背景には政治や経済や法や文化が複雑に絡み合っていて、1つの専門分野単一の知見では解決に結びつかないよね、幅広く組み合わせて(=学際的に)考えなきゃいけないよね」というマルチディシプリン(使っちゃったよ)に依るところも感じています。

意識高い系の人ってやたらと「○○×△△」みたいな掛け算大好きですよね。腐女子かってね。
それも上記のようなことに鑑みるとあながち間違った思考プロセスでもないんだろうなっていうのがわかってきはしたんですけど、「難民×途上国開発×紛争解決」みたいな大風呂敷な話になってくると胡散臭さが出てくるのも事実。まぁほんとにやってのけるヤツもいたりするからすごいんですけどね。

掛け算でも総当りでもなんでもいいですけど、組み合わせからアイディアを考えていくにあたって気をつけなきゃいけないのが需要と供給を逆転させてしまっていないかということです。
なんらかの問題があって、解決する必要(需要)があって、まずはそこが出発点になって様々なアイディアを出して解決に向かっていくのが本来の在り方なんですが、自分が提供できること(供給)を出発点にして、相手がそれを必要としていると"思い込んで"、独善的な施策をやろうとするという需給の逆転がしばしば起こります。

スポーツ界隈でも東京オリパラの絡みで国際貢献が流行ってきてるんですが、「アフリカ諸国にスポーツ用具を送ります!」なんてことを素でやってて、「魚を与えるのではなく魚の釣り方を教える」とか「魚の釣り方を教える人を育てられる環境を整える」みたいな途上国開発を考える上での初歩の初歩を全力で逆行している辺りに不安を覚えてしまいます。いやまぁ段階的にやってくのかもしんないですけどね。



■節操というか、欺瞞というか
おそらく意識高い"系"の問題は「すごいことをやっている」という隠れ蓑を上手く使って、結局は自己アピールがしたいだけということなんじゃないかと思います。そりゃ誰しもちやほやされたい気持ちはあるんでしょうけど、それが目的になってはいけない。

ただ言葉遣いにしろアイディア出しにしろ、それが話をしている相手や解決すべき問題に眼差されたものであるのならば、批判されるいわれはないんですよね。
問題は全て自分の外にあって、コミュニケーションの中でそれをすくい上げて、より良い方向へ導いていくということの繰り返しでしかありえない。自己実現とかそういうのは副次的なものであって、それがメインには成り得ない。

意識高い系の世界観も含めて「幅広い知識」として持っておいて、上手く使いこなせたら良いのかなーという気がしている今日この頃です。

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カウンター

プロフィール

HN:
KANI
年齢:
31
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上 ゲーム アニメ
自己紹介:
筑波大学に通っております。
同好会で陸上をする傍ら学業をしています。
スポーツに関わりたいと思いつつどういうアプローチをすればいいのか模索中。
一人でいることが多いですが寂しくなんかないんだからね。

リンク

アクセス解析

ブログ内検索

カテゴリー

最新CM

[04/17 NONAME]
[12/21 KANI]
[12/05 200]
[04/03 ながれ]
[04/03 KANI]

バーコード

Copyright ©  -- B-DIARY --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]