タイトルで語りきったので本文は省略します。
というわけにもいかないのできちんと…
■カタカナ語問題
意識高い系といえばカタカナ語みたいなとこありますよね、コミット!シナジー!イノベーション!
最近弊社の管理職世代からよくカタカナ語問題が取り沙汰されます。意味わからんから日本語で言えやと。ある人は「正直会議中意味わかってないときあるけどわかったフリしてうんうんうなずいてる」なんて言ってたりもします。
こういうのにすぐ老害ガーとか言っちゃうのは若い人の傲慢だろうし、やっぱり程度の問題なんだろうなと思います。「シナジー」ぐらいならなんとか理解してくれ頼むって感じですけど、「スキーム」とかは若干怪しくなってくるし、「グッドプラクティス」とかお前それもう「成功事例」って言ったほうが文字数も少ないだろっていうのはなるべく使わない方がいい。
ちなみにカタカナ語って若い人が使いたがるっていうのも1つあるんですけど、企業とか組織単位で使いたがりっていうのもあるんですよね。特に海外相手に仕事をすることが多いところは日本人同士の会議の中でもわざわざカタカナ語を使いたがる印象があります。日々気をつけてないと英語に切り替えるときに詰まっちゃうのだろうか、それとも日々有能アピールを欠かさないのだろうか。辟易。
自分は基本的に漢字語で、カタカナ語使いたがりを相手にするときには意識的にカタカナ語を織り交ぜるように意識しています。やっぱり日本人同士のコミュニケーションなら表意文字である漢字をベースにする方が自然なんですよね。「せいこうじれい」って音で聞いたら脳内で「成功事例」と漢字に変換して、文字の意味から言葉の意味が理解できますが、一方で「ぐっどぷらくてぃす」は音で聞いても表音文字の「グッドプラクティス(Good Practice)」にしか変換できないから、英単語の意味を知ってるかどうかの余計なワンステップを挟むことになってしまう。
その辺考えるとカタカナ語使いたがり界隈は脳内の思考のベースが英語になってるからカタカナ語で聞いたほうが理解が早いという可能性もある…のかな?日本人でそんなことはありえないと思うんですけどね。
ただまぁ漢字語にせよカタカナ語にせよ、言葉ごとにそれぞれ正確な意味があるというのもまた一つの事実なので、なんらかの状態を言い表すのに漢字語だと回りくどくなっちゃうからカタカナ語を使うというのはあると思います。「相乗作用」よりは「シナジー」と言いたいというのは許して欲しいみたいな。その辺も含めて使い分けが大事だよねっていう。
■複合で挑む
「複合で挑む」、ケンガンアシュラの大久保対牙戦面白かったですね。ケンガンアシュラは裏サンデーのサイト開設時からずっと読んでるのでここまで人気が出ると感慨深い…
閑話休題。
「アイディアとは既存の要素の新しい組み合わせ」と言うのは先人の言葉ですね。仕事をしてる中で課題が見つかったとき、所属課の文脈や暗黙知をベースに考えがちになってしまうんですが、別の課のノウハウや異業種の知見、大学時代に見聞きした概念・分析枠組み等々から解決の糸口を見出せないかというのはなるべく意識しています。
それはおそらく母の「物事は前からだけじゃなくて上からも横からも見るんだよ」という言葉の影響もあるんだろうなと思います。1つの物事については色々な視点から見るようにするんですけど、それに夢中になって視野が狭くなるのが自分の短所…というのはまた別の話。
また、国際総合学類の「国際問題の背景には政治や経済や法や文化が複雑に絡み合っていて、1つの専門分野単一の知見では解決に結びつかないよね、幅広く組み合わせて(=学際的に)考えなきゃいけないよね」というマルチディシプリン(使っちゃったよ)に依るところも感じています。
意識高い系の人ってやたらと「○○×△△」みたいな掛け算大好きですよね。腐女子かってね。
それも上記のようなことに鑑みるとあながち間違った思考プロセスでもないんだろうなっていうのがわかってきはしたんですけど、「難民×途上国開発×紛争解決」みたいな大風呂敷な話になってくると胡散臭さが出てくるのも事実。まぁほんとにやってのけるヤツもいたりするからすごいんですけどね。
掛け算でも総当りでもなんでもいいですけど、組み合わせからアイディアを考えていくにあたって気をつけなきゃいけないのが需要と供給を逆転させてしまっていないかということです。
なんらかの問題があって、解決する必要(需要)があって、まずはそこが出発点になって様々なアイディアを出して解決に向かっていくのが本来の在り方なんですが、自分が提供できること(供給)を出発点にして、相手がそれを必要としていると"思い込んで"、独善的な施策をやろうとするという需給の逆転がしばしば起こります。
スポーツ界隈でも東京オリパラの絡みで国際貢献が流行ってきてるんですが、「アフリカ諸国にスポーツ用具を送ります!」なんてことを素でやってて、「魚を与えるのではなく魚の釣り方を教える」とか「魚の釣り方を教える人を育てられる環境を整える」みたいな途上国開発を考える上での初歩の初歩を全力で逆行している辺りに不安を覚えてしまいます。いやまぁ段階的にやってくのかもしんないですけどね。
■節操というか、欺瞞というか
おそらく意識高い"系"の問題は「すごいことをやっている」という隠れ蓑を上手く使って、結局は自己アピールがしたいだけということなんじゃないかと思います。そりゃ誰しもちやほやされたい気持ちはあるんでしょうけど、それが目的になってはいけない。
ただ言葉遣いにしろアイディア出しにしろ、それが話をしている相手や解決すべき問題に眼差されたものであるのならば、批判されるいわれはないんですよね。
問題は全て自分の外にあって、コミュニケーションの中でそれをすくい上げて、より良い方向へ導いていくということの繰り返しでしかありえない。自己実現とかそういうのは副次的なものであって、それがメインには成り得ない。
意識高い系の世界観も含めて「幅広い知識」として持っておいて、上手く使いこなせたら良いのかなーという気がしている今日この頃です。
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