1月31日に国際総合学類3年生一番の大仕事である独立論文を提出しました。
卒論の練習として書くもので、テーマは自分の所属するゼミの分野に合わせてはいるものの割と自由に選択できます。
以前書いたんですが、僕のテーマは最終的に「スポーツ文化の日本的発展と実践の歴史」ということで落ち着きました。提出するとき「これもう少し他に言い様ないんか」と思っていた気がします。
ともあれ一段落着いたということで、独論を書くときのモチベーションの1つであった「俺…この論文書き終わったらドヤ顔解説記事書くんだ…」を実現しておきたいと思います。概ね卒論に向けての自戒として、またもしかしたらこれを読むかもしれない後輩のため。
ちなみにどうでもいいんですけど最近Gunosyつながりでドヤ顔起業系ブログとか見ることが多くて文章がそれに影響されてるかもしれません。
1)第1章第1節"問題設定"のときのワタシ「~~を明らかにすることを目的とする(キリッ」→書き上げたときのワタシ「
なんも明らかになってねーから!」
正直これを言いたいだけの記事という感がある。
所詮学部3年生のレベルなんてこんなもんなんだというのを痛感させられました。1つの参考文献を手にとって見てみると、それの参考論文に膨大な数の本や論文が書かれていて、とにかく知の圧力とでも言うべきものに圧倒されてしまいます。一方で自分の書いているモノに目をやると読んでる文献のエッセンスをほんのちょっぴりしか汲み取れてないし、結局は先行研究の羅列(キュレーション(キリッ にもなってない)でしかない。まして新規性があるような斬新な概念やパースペクティブなんてもってのほかでした。
特に社会科学系の古典を読んで理解する力がないのが一番つらかった。よしんば読んでなんとなく概念を理解できたとして、自分の武器として扱い切ることが出来ませんでした。文章を書いていても「これはなんとか論とかホニャララ主義とかほげほげの立場だ」ということを宣言しながら語ることが出来なくて、結局都合のいい羅列にしかなっていませんでした。
もっと前から勉強していれば、あるいは今が数カ月先から見た「もっと前」なのかもしれない、みたいな陳腐な後悔ばかりが浮かんできます。
2)「スケジュール管理」についての理解の足りなさ
自分はスケジュール管理について反省する回数が多すぎやしないか、本当に反省しているのか。
実を言うと書く作業だけに着目すれば1週間もかからずに終わりました。特にラストの4日間で2000字→4000字→4000字→推敲・体裁直しと進んでいたので、ただアウトプットするだけなら一応そういう無茶も出来てしまいます。
じゃあそれまで何に手こずっていたのかといえばインプットです。今になってようやく言えるんですが論文書きの作業行程の99%はインプットなんだと思います。今回の場合はインプット作業に対する理解に大きな間違いがあったために、締切直前になって本を読みながら書かなければならず王蟲みたいな声を出しながらパソコンと向き合うハメになりました。
スケジューリングするときってだいたい〈完成形のイメージ→必要条件の抽出→条件達成のための方法論を立てる→敷いたレールに乗って走るだけ〉という流れがあるわけですが、今回に関してはまず完成形のイメージが曖昧でした。特に自分の場合いかに卒論につなげるかという視点でばかり独論を捉えていたために、そもそも独論自体をどのように着地させるかへの意識が薄かったように思います。結果として歴史記述が大部分を占めることになったのですが、「独論は歴史記述をする」というイメージを固めてさえいればそれによって読まなければならない本/今は読まなくていい本の区別を出来ていたはずなのです。具体的に言うと独論でほぼ使うことのなかったブルデューやホイジンガの著書を読み解こうとするのに時間をかけ過ぎて本来読むべき歴史書を読む時間が全然とれなかったのが敗因でした。独論の完成形のイメージが曖昧だったために、やってる作業が「独論を書くための作業」なのか「卒論を書くための作業」なのかという区別もまた曖昧になってしまいました。
加えて実家に帰っていた2週間弱の時間にそういった足踏みをしてしまったのも良くなかったですね。必要な本は筑波の図書館に行かないと読めないことに気付いた時には時すでに遅し。
こういうミスを陸上だったらしないはずなんですよね自分の場合。例えば1ヶ月後までにタイム上げる必要がある状況で効果出るまでに6ヶ月かかるサーキットトレーニングをやるバカがいるかって話になるんですけど、悲しいかな他の分野になった途端に実際にやらかして「あぁこれは無理なスケジューリングだったんだ」というのを肌でわからないとダメなタイプのバカに成り下がってしまう。分かった時にはすでに手遅れであることだって考えられるのに。そして今回だって卒論の”練習”でヨカッタデスネと結果論で片付けてしまうのか…
3)"ミサワ化"せずにはいられない
独論に限った話ではないんですけど。
他人の不幸は蜜の味って言う通り、やっぱり体張ったネタとかどーやったって面白くなるんですわ。そしてSNSで簡単に発信者になれるからそういうのが跋扈する、深刻な話だってネタに転化してしまう。単位落としたとか留年したとかを"芸"って言うようになる。今回の作業工程も追い詰められては「かーっ全然寝てないわーかーっ」って言って、同じように詰まってる同期を煽り散らかしみたいにもうホント汚いったらありゃしない。
まぁ追い詰められた状況を茶化して少しでも気を楽にしたい気持ちってのは確かにあるんですが、ネタにするために積極的に追い詰められに行くみたいな倒錯が生じるのはやっぱりマネジメントとしてはダメっしょという正論オブ正論をかざす自分もまたいる。
それを考えると高3のときの「絶対家で勉強できないから休日も学校に行って家では開き直って何もしない」というのはストレスマネジメントとして我ながら良く出来ていたなと思います。というかなぜそれを今出来ないのかという話になってしまうんですが…
4)なんやかんや言って「所詮独論」だった
ぶっちゃけ自分よりヤバい人たくさんいました。1週間前からようやく手を付け始めたとか、体裁ボロボロとか。
自分のだって大層なもんじゃない。見かけの文字数はそれなりにあるけど「この歴史記述本当に必要なのか?」ってのを残した状態で出したし、必要な部分の記述も浅すぎるし、考察も甘い。実際ちょっと長くて体裁だけ整えた「レポート」って感じでした。
一方でその辺の大学ならそのまま卒論として出しても遜色ないクオリティの人もいました。うちのゼミだと卒論のミニマムが40000字となっているんですが、独論段階でそのぐらい書いてる人もいました。まぁ必ずしも文字数が正義というわけではないんですけど記述が厚くて悪いことは内容的にはあまりないわけで。
それもこれも全部通っちゃって、等しく「3単位」で終わるわけです。
卒論なら体裁不備で弾かれそうなのも通ってるのを実際に見たし、どれだけ頑張っても成績としての上限で頭打ちになってそれを越える分は自己満足にしかならない。
そうなるとコストパフォーマンスとか考えちゃうのも自然っちゃ自然な思考だよなとは思います。
卒論になると学類内で優秀論文賞というのが設けられているので高みを目指す上でのモチベーションにはなるでしょうね。それにダイレクトに卒業と関わってくるのでさすがに命の懸け方が独論とは変わったものになるとは思います。
以上こんな事を修羅場中に考えておりました。
これから独論を書く人に同じ轍を踏んでほしくない気持ちはもちろんありますが、そうは言ってもなかなか避けられるもんではないだろうなぁという諦めもあります。
そして卒論を書くときには絶対にこうなるまいという自戒のために書いたものではあるのですが、多分来年の今頃同じようなこと言うんだろうなぁという諦めもあります。もうあとは程度の問題と考えて、せめて大きな後悔だけ残さないように出来ればいいかなと思います。