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B-DIARY

筑波大生のあれやこれ。

   

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記録会&1年

一昨日記録会があって、年度が明ける前に一足先にシーズンインしました。
100mと200mに出て、プリンターの故障だかで100mの記録はまだわからないんですが200mは24"04(-0.3m)とちょっとばかしやらかしてしまいました…
周りもベストから考えるとやや低調で、まぁまだ3月だしこんなもんなんだろうかと言うことも出来るんですけど、目標値に全然届いてなかったし800m選手にも負けてしまったしっていう事実があるのでそういうところはやはり反省しなければなと思います。
大学最後の1年は「悔しい」という気持ちを取り戻そうと思って冬練から意識してきたので。



年度末ということで一応1年を振り返ります。

今年1年は人生で一番人と喋った年だったなと思います。有り体に言えばモテ期だったかもしれない。いややっぱそれは嘘かもしれない。
最も大きな出来事といえばやはりブロック長をやったことに尽きます。2年生までの自分って黙々と走ってるだけで思ってることをあんまり口に出さないし感情表現も乏しい(今も割とそうだけど)奴だったので、もしかしたらブロック長になった直後に「コイツで大丈夫なんだろうか」とか思われたかもしれないんですよね。実際にどうだったかはわかりませんけど自分が自分を外から見たらそういう感想を抱いたと思います。
僕が1年生で入ってからのブロック長は実力も伴っていた人ばかりだったので、そういう引っ張り方は自分には出来ないだろうな、じゃあ何を武器にして引っ張ったらいいんだろうなとか考えて、自分に出来るのは言葉を尽くすことだろう、高校の時から色々思ってきたことを全部口に出してしまおうという結論に至り、あーだこーだ言いながら1年間やってきました。そしてこの1年間でみんなが見せてくれた走りはこれまで僕が所属してきた3年間で最高のものばかりでした。自分のしてきたことは本当に些細なものであったにもかかわらずみんなは感謝の言葉をたくさんくれて、なんだか自分の方がもらってばかりだなぁと思ってしまいました。
月並みですけど、みんなのおかげで自分を大きく変えることが出来たと感じています。

あとゼミでの1年間も楽しかったです。最初は周りのメンバーを見てこの中でやっていけるんだろうかとか思ってて、始まった直後もゼミ2時間あって一言二言しか喋らないような感じだったんですけど、それが妙にありがたがられてなんやかんや地位を築いてここまでやってこれました。学類新歓でコケてアウトローに堕ちていった身としてはゼミでの時間は「国際生らしさ」を取り戻せている感じがしてとても新鮮で楽しいです。あと教授が高笑いする姿というのを見るのもすごくいいです。
再来週からは後輩が入ってまた違った顔ぶれでのスタートということでまた去年同様の不安もありますが上級生としてなんとかしないとなぁというところです。

そう、もう4年生でになってしまうんですね。陸同にいる間は院生の先輩もいるのであまり意識はしませんが一応最上級生なんですね。
追いコンで一番身近だった先輩方が壇上で喋るのを見て、来年自分はここで何を喋るんだろうと考えてしまうことに物悲しさを感じました。色々なことに「最後」とついてしまうんですね…
人生最後のモラトリアム、やり残したことがないように過ごして行きたいです。まぁまずはモラトリアム後の行く末を確定させなきゃいけないんですけど…
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ホワイトデー

もう2週間前の話ですが。

毎年陸同でなんやかんや作ってきてくれる人が結構いるんですが、今まで貰いっぱなしだったのでせっかくだし今年はお返しを用意しよう!とは思ったものの作るスキルも設備もないので東京に出るついでに金で解決することに。

しかしなんというかこう、人にプレゼントをした経験に乏しい人生(婉曲表現)を送ってきたので何を買ったらいいか全然わかんないんですよね。
そもそもおいしいお菓子の情報とかどっから仕入れるものなんですかね?まぁググレカスって話ではあるんですけど本とかそういうの使うとしたらどうするんだみたいな。男性誌よりは女性誌のほうが情報ありそうな気がしますよね。それとも昼とかにやってるテレビを真剣に見たりでもするのか…結局はデパ地下を適当に歩いて目についたものを買うっていう足で稼ぐ方式を取ったんですけど。
慣れない場所でウロウロ歩きながらわからないなりに選んでみるのもそれはそれで結構楽しかったです。こういうのもあるんだなーという発見がたくさんある感じで。

何を買おうか選びながらふと「プレゼントの経験値はプレゼントを贈ることでしか上がらない」よなーみたいなことを考えてました。
(今回は省いたけど)下調べとかして、どういうものが喜ばれるのか考えて、選択肢を比較して、渡した時の反応がどうたったかとか思い返して…みたいなの実際にやんないとわかんないもんですね。当たり前っちゃ当たり前なんですけど人生経験乏しいマンにとってはそういうことがハタチ過ぎても新鮮に感じられてしまうんです。
そう考えるとたとえ3倍返しでお返しを用意することになっても増えたコストはそのまま「投資」になっていて、お返しを用意するという行為自体に自分への見返りがそれなりに含まれてるんだろうなとか考えてしまいました。
そういうこと言うともらったお菓子を素直に美味しく食べられなくなりそうですけど。

自分が練習行ける日が限られてるとか帰省してる人がいたりとかでもらった人全員にちゃんと返せずになくなっちゃったのが心残りですね。
来年はもうちょっと真面目に用意しよう。

「テメェどの立場からモノ言ってやがる」

最近為末大さんと南直哉さんの『禅とハードル』という本を読みました。内容は為末さんが競技の中で経験した「フロー」とか「ゾーン」とか呼ばれる体験が禅のそれに近いみたいなスピリチュアル(一般的な感覚で言ったらこう表現しても差し支えない気がします)な話とか、為末さんの人生観を禅宗の視点から捉え直すという感じでなかなか面白かったです。
まぁ本は面白かったんですけど、最近為末さんの書く文章を読むと色々な感情がわき上がってくるのに気づきます。
その大部分は「共感」です。言ってることが理解ではなくて共感という形で「わかるなー」と思う瞬間が結構あります。自分も長いこと陸上をやってきて、またその大部分においてハードルをやってきた身であるという点も相まってこういう同一視が起きるのかもしれません。
他はこの共感に起因するものなんですけどこれがなかなか厄介で、「なんで同じようなこと考えててもこの人が言うとすごく聞こえるんだろうなー」という「嫉妬」だったり、「いやいや自分がしてきた経験なんてレベルが違いすぎるし共感なんて自分がそう都合よく思い込んでるだけでしょ」という「卑下」だったり…なぜか素直に読めずにそういうノイズばかりが溢れてしまいます。

陸上よりは短いですが、それでもこれまた結構長いことネット上に文章をつらつら書いてきた身としてはこういう「なんか普段考えてたことを言語化したら共感してくれる人がいておかげで飯が食えます」っていう状況そりゃー憧れるわけです。「あー今すぐウチに爆弾落ちねーかなー」ってぼやくのと同レベルのどうしようもない文句なんですけど。
一応自分だってそれなりに自分で面白いと思ったテーマについてそれなりに自分でオモシロイと思った表現を使って頑張って書いているつもりではあるんですけど、かたや書籍化、かたや1桁PV/日…というのは更新頻度とかレイアウトとか自助努力が足りてない面もありますがやっぱり説得力というか深みみたいなものが違うわけですよね。かたや世陸メダリストでかたや普通の大学生だし…
って、思ってしまうあたりちょっと権威主義的なところがあるような気がします。内容そのものというテクストよりも言ってる人の背景や属性というコンテクスト(ちょっと言葉の定義が曖昧なんで詳しい人に見られたら叩かれそうな書き方なんですが、文脈とか状況というよりむしろ話し手にフォーカスした意味合いで書きます。他に適切な言い方があるのかもしれませんが…)の方が重要という。先に述べた嫉妬や卑下もそういうところに根っこがあるような…そもそもテクストも伴ってねーだろって話になり、いやいやそう感じるのがコンテクストの影響受けてるでしょっていう堂々巡りになってしまうんですけど。

しかし考えてみるとコミュニケーションって全般的にテクストよりもコンテクストに依拠してるものなのかもしれません。特に日本はハイコンテクスト文化と言われるのでそれを強く意識してしまうのではないかと思います。
普段の会話とかでも「こいつの言うことじゃなー」なんて言って話半分に聞いたり、逆に偉い人の話だと内容的にはふわふわしてても「なんかすげぇ(ただしふわふわしてる故に「なんか」を具体化出来ない)」と思ってしまったり…話し手の意図が聞き手に伝わって初めてコミュニケーションとして成立するわけですが、案外客体化出来るテクストの部分がストレートに伝わってることって少なくて、コンテクストによる歪曲や間引き、誇張を加味しなければならないんですね。

コミュニケーションにおいて論理性やデータによる裏付け等でテクストを充実させることも手ではありますが、それと同じぐらい、もしかしたらそれ以上にコンテクストの充実も大事なのかもしれません。政治系の授業で「統治のために権力闘争としての政治がある」みたいな感じの話を聞いた気がするんですが、立場がモノを言うってのは自分自身短距離ブロック長になる前/なった後で結構感じてた部分ではあります。終わったから公にするんですけど。
そう考えるとゴマすりとか役職争いみたいなえーって思うような行為も不必要と言い切れるものではないのかなと思いますが、じゃあそういう方向性じゃなくてもっと真っ当にコンテクストを充実させるにはと考えると、やっぱり実績を積み重ねることなのかなぁと思います。営業利益がどうこうみたいな客体化出来るものでもいいし、人知れずゴミ拾いしましたみたいなささやかな努力でもいい。目の前にある課題を淡々と、確実にこなしていって、1.01倍でも自分を高められる行為を積み重ねていくことで信頼を得て大きな問題に取り組めるようになるのではないかなと。最近「新入社員は合う合わない言う前に"素振り"をしろー」みたいなやや前近代的な話も聞くんですが、下積みを軽視すべきではないという点では納得ですね。
まぁ目の前にある課題の倍率が低いのばっかりという時にはエイヤッと困難な状況に飛び込んでいく必要もあるのかもしれません。それを考えるとアツいベンチャー企業とかが謳ってる「圧倒的成長」とかいうポエミィなフレーズもちょっと理解できる気がします。

言葉そのものというのは案外薄っぺらくて、それ以前の積み重ねが厚みを持たせてくれるのでしょう。

独立論文を書いて思ったこと

1月31日に国際総合学類3年生一番の大仕事である独立論文を提出しました。
卒論の練習として書くもので、テーマは自分の所属するゼミの分野に合わせてはいるものの割と自由に選択できます。以前書いたんですが、僕のテーマは最終的に「スポーツ文化の日本的発展と実践の歴史」ということで落ち着きました。提出するとき「これもう少し他に言い様ないんか」と思っていた気がします。
ともあれ一段落着いたということで、独論を書くときのモチベーションの1つであった「俺…この論文書き終わったらドヤ顔解説記事書くんだ…」を実現しておきたいと思います。概ね卒論に向けての自戒として、またもしかしたらこれを読むかもしれない後輩のため。
ちなみにどうでもいいんですけど最近Gunosyつながりでドヤ顔起業系ブログとか見ることが多くて文章がそれに影響されてるかもしれません。


1)第1章第1節"問題設定"のときのワタシ「~~を明らかにすることを目的とする(キリッ」→書き上げたときのワタシ「なんも明らかになってねーから!

正直これを言いたいだけの記事という感がある。
所詮学部3年生のレベルなんてこんなもんなんだというのを痛感させられました。1つの参考文献を手にとって見てみると、それの参考論文に膨大な数の本や論文が書かれていて、とにかく知の圧力とでも言うべきものに圧倒されてしまいます。一方で自分の書いているモノに目をやると読んでる文献のエッセンスをほんのちょっぴりしか汲み取れてないし、結局は先行研究の羅列(キュレーション(キリッ にもなってない)でしかない。まして新規性があるような斬新な概念やパースペクティブなんてもってのほかでした。
特に社会科学系の古典を読んで理解する力がないのが一番つらかった。よしんば読んでなんとなく概念を理解できたとして、自分の武器として扱い切ることが出来ませんでした。文章を書いていても「これはなんとか論とかホニャララ主義とかほげほげの立場だ」ということを宣言しながら語ることが出来なくて、結局都合のいい羅列にしかなっていませんでした。
もっと前から勉強していれば、あるいは今が数カ月先から見た「もっと前」なのかもしれない、みたいな陳腐な後悔ばかりが浮かんできます。


2)「スケジュール管理」についての理解の足りなさ

自分はスケジュール管理について反省する回数が多すぎやしないか、本当に反省しているのか。
実を言うと書く作業だけに着目すれば1週間もかからずに終わりました。特にラストの4日間で2000字→4000字→4000字→推敲・体裁直しと進んでいたので、ただアウトプットするだけなら一応そういう無茶も出来てしまいます。
じゃあそれまで何に手こずっていたのかといえばインプットです。今になってようやく言えるんですが論文書きの作業行程の99%はインプットなんだと思います。今回の場合はインプット作業に対する理解に大きな間違いがあったために、締切直前になって本を読みながら書かなければならず王蟲みたいな声を出しながらパソコンと向き合うハメになりました。
スケジューリングするときってだいたい〈完成形のイメージ→必要条件の抽出→条件達成のための方法論を立てる→敷いたレールに乗って走るだけ〉という流れがあるわけですが、今回に関してはまず完成形のイメージが曖昧でした。特に自分の場合いかに卒論につなげるかという視点でばかり独論を捉えていたために、そもそも独論自体をどのように着地させるかへの意識が薄かったように思います。結果として歴史記述が大部分を占めることになったのですが、「独論は歴史記述をする」というイメージを固めてさえいればそれによって読まなければならない本/今は読まなくていい本の区別を出来ていたはずなのです。具体的に言うと独論でほぼ使うことのなかったブルデューやホイジンガの著書を読み解こうとするのに時間をかけ過ぎて本来読むべき歴史書を読む時間が全然とれなかったのが敗因でした。独論の完成形のイメージが曖昧だったために、やってる作業が「独論を書くための作業」なのか「卒論を書くための作業」なのかという区別もまた曖昧になってしまいました。
加えて実家に帰っていた2週間弱の時間にそういった足踏みをしてしまったのも良くなかったですね。必要な本は筑波の図書館に行かないと読めないことに気付いた時には時すでに遅し。
こういうミスを陸上だったらしないはずなんですよね自分の場合。例えば1ヶ月後までにタイム上げる必要がある状況で効果出るまでに6ヶ月かかるサーキットトレーニングをやるバカがいるかって話になるんですけど、悲しいかな他の分野になった途端に実際にやらかして「あぁこれは無理なスケジューリングだったんだ」というのを肌でわからないとダメなタイプのバカに成り下がってしまう。分かった時にはすでに手遅れであることだって考えられるのに。そして今回だって卒論の”練習”でヨカッタデスネと結果論で片付けてしまうのか…


3)"ミサワ化"せずにはいられない
独論に限った話ではないんですけど。
他人の不幸は蜜の味って言う通り、やっぱり体張ったネタとかどーやったって面白くなるんですわ。そしてSNSで簡単に発信者になれるからそういうのが跋扈する、深刻な話だってネタに転化してしまう。単位落としたとか留年したとかを"芸"って言うようになる。今回の作業工程も追い詰められては「かーっ全然寝てないわーかーっ」って言って、同じように詰まってる同期を煽り散らかしみたいにもうホント汚いったらありゃしない。
まぁ追い詰められた状況を茶化して少しでも気を楽にしたい気持ちってのは確かにあるんですが、ネタにするために積極的に追い詰められに行くみたいな倒錯が生じるのはやっぱりマネジメントとしてはダメっしょという正論オブ正論をかざす自分もまたいる。
それを考えると高3のときの「絶対家で勉強できないから休日も学校に行って家では開き直って何もしない」というのはストレスマネジメントとして我ながら良く出来ていたなと思います。というかなぜそれを今出来ないのかという話になってしまうんですが…


4)なんやかんや言って「所詮独論」だった
ぶっちゃけ自分よりヤバい人たくさんいました。1週間前からようやく手を付け始めたとか、体裁ボロボロとか。
自分のだって大層なもんじゃない。見かけの文字数はそれなりにあるけど「この歴史記述本当に必要なのか?」ってのを残した状態で出したし、必要な部分の記述も浅すぎるし、考察も甘い。実際ちょっと長くて体裁だけ整えた「レポート」って感じでした。
一方でその辺の大学ならそのまま卒論として出しても遜色ないクオリティの人もいました。うちのゼミだと卒論のミニマムが40000字となっているんですが、独論段階でそのぐらい書いてる人もいました。まぁ必ずしも文字数が正義というわけではないんですけど記述が厚くて悪いことは内容的にはあまりないわけで。
それもこれも全部通っちゃって、等しく「3単位」で終わるわけです。
卒論なら体裁不備で弾かれそうなのも通ってるのを実際に見たし、どれだけ頑張っても成績としての上限で頭打ちになってそれを越える分は自己満足にしかならない。
そうなるとコストパフォーマンスとか考えちゃうのも自然っちゃ自然な思考だよなとは思います。
卒論になると学類内で優秀論文賞というのが設けられているので高みを目指す上でのモチベーションにはなるでしょうね。それにダイレクトに卒業と関わってくるのでさすがに命の懸け方が独論とは変わったものになるとは思います。


以上こんな事を修羅場中に考えておりました。
これから独論を書く人に同じ轍を踏んでほしくない気持ちはもちろんありますが、そうは言ってもなかなか避けられるもんではないだろうなぁという諦めもあります。
そして卒論を書くときには絶対にこうなるまいという自戒のために書いたものではあるのですが、多分来年の今頃同じようなこと言うんだろうなぁという諦めもあります。もうあとは程度の問題と考えて、せめて大きな後悔だけ残さないように出来ればいいかなと思います。

ゼミとグループディスカッション

グループでの討論ならゼミでも結構やってるしまぁなんとかなるっしょーという気持ちで就活のGDに臨んでみたらちょっと毛色が違って思ったよりも苦戦した、という経験があったので今のうちに自戒の意味も込めて書いておこうと思いました。
ゼミの形式について「うちのゼミの場合」という但し書きがつくので一般的な話にはなりづらいかもしれないですが。

とりあえずゼミとGDについてそれぞれどういう風に進んでいくかを確認しましょう。
うちのゼミの場合、春学期にやってた文献講読の時は発表者が担当してる分のレジュメ作って要旨まとめて発表して、それを受けてみんなで疑問に思った点なんかを自由に討論する形。秋学期からの卒論・独論構想発表の時は発表者がどんな風に書いていくか発表してみんなで突っ込むって感じ。
それに対して就活でやるようなGDは人事に課題を出されてそれについて討論する…ぐらいの認識で大丈夫でしょう。多分。
あと時間について言うとゼミはネタが尽きたら終わり(実質的には無制限)なのに対してGDは当然ながら制限時間がありますね。
そして「何をもって終わるか」に注目すると、ゼミの場合は「感想」、つまり討論を受けてどう思ったかと、構想発表の場合はこれからどうするかという展望を述べて終わります。対してGDは課題に対する「解答」を提示することで終わります。
ここまででざっくりまとめると、ゼミは「多少グダってもいいので正当性を突き詰めていく作業」、GDは「制限時間内にそれっぽいシナリオを練り上げる作業」であると考えられます。

多少グダってもいいので正当性を突き詰めていく作業であるゼミは積み木方式で進んでいきます。誰かがなんか言ったらそれにレスポンスして、それをどんどん積み上げていく。脱線上等というか、ゴールがそもそも設定されていないので無限に話を広げることができます。
ゼミの目的は意見を交わしあう中でパースペクティブを広げること、結局は学習であることを鑑みれば納得ですね。プロセスに価値が置かれているわけです。
論文の構想発表の時は「書き上げる」というゴールが設定されてはいますが、そこに至るまでは最終的には個人の問題になりますしゼミで話し合う段階ではやはりまだ学習の域を出ないと思います。

制限時間内にそれっぽいシナリオを練り上げる作業であるGDは塗り絵方式で進んでいきます。まず最初にゴールの設定があり、それに向かって議論を進める必要があります。
となれば脱線はすべきではありません。意見の多様性はあってしかるべきですが、設定したゴールに結び付く意見なのかを逐一確かめながら発言する必要があります。結びつかないならそれは「今は必要ない」意見です。
GDの目的は解答を作り上げることであり、成果物に価値が置かれます。そりゃー採用試験という人事側の観点から見ればプロセスを評価しているかもしれませんが、それはGDを"やる側"の論理ではないわけです。ゼミであるような他の人の意見を受けて気付きがあって学ぶことができたなーみたいな主観に還元されるようなプロセスは今はどうでもよくて、"やる側"はとにかく客観的な成果を出せと。
これも「社会人」としてこれから「ビジネス」をするということを鑑みれば納得できます。客観的な成果なしには何も評価しえないわけで、そういう思考法をするよう採用の段階で訓練されてるんですね。そういう思考法が出来ないと落とされるって寸法なんでしょうきっと。

要は「ゴールを意識しているかどうか」ということについてまず自省しなければなりません。ゼミの時にただ話を広げるだけの変化球的な発言することが多いんですが、GDの場面ではゴールに結びついているかどうかを考える必要があります。
またこのように自分の意見の立ち位置を確認していくということを考えると「原因ー結果」とか「方法ー成果」の上り下りのイメージが結構重要なんじゃないかと思います。個人的には練習メニュー作るときに意識してた部分が大きいのでなんとかならないかなーと楽観視してしまうんですが、油断するとよくないですね。
あとはグループワークなので、もしグループ内に脱線する人がいたとしてどうやってこれを穏便に要求するかみたいないかにも日本人っぽいことも考えてしまうんですが…まぁゴールや前提条件の共有を徹底して思考のフレームワークを押し付けて矯正するのか、みたいな月並みで押し付けがましいことしか言えないですね。そもそも自分はそんなことが言えるような技量を持ってるのかという。

方法論として思うのはこんなところでしょうか。
建設的な意見を言うための方法論が意識できても、そもそも意見が建設的になるようにするためには知識をつけないといけないので、両面で訓練しないといけないですね…

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プロフィール

HN:
KANI
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上 ゲーム アニメ
自己紹介:
筑波大学に通っております。
同好会で陸上をする傍ら学業をしています。
スポーツに関わりたいと思いつつどういうアプローチをすればいいのか模索中。
一人でいることが多いですが寂しくなんかないんだからね。

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