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B-DIARY

筑波大生のあれやこれ。

   

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メメント・モリ

第5回流経大記録会で200mと110mHに出場。

200mは23"43(+1.9)でまたベスト更新でした。スタート2歩ぐらいミスって出遅れたんですが後半なんとか巻き返せたのと、あとは風に恵まれてました。1レーン引いたときはあーあって思ったけど実際に走ってみたら内傾グイグイかけれて面白かったしそんなに不自由は感じなかったかな。
まぁ200mだけを意識した専門の練習ってのは特にしてない中でのこのタイムはそれなりに満足でした。200mに関しては。

肝心の110mHは17"05(+1.6m)でした。5台目まではベストのペースだったんですが6、7と徐々にテンポが悪くなり、8台目で抜き足をぶつけて9、10台目は完全にリズムを崩して大幅にタイムロス。8台目以前までのリズムをキープできれば念願の16秒台だったと思うんですが、出来なかったことについてたられば言ったところでどうしようもないので。
練習でも速くなってる実感はあったし、走る直前までやれることはやってきたと思ったのに、走り終わって出てきた言葉は「なんでこんな走りしか出来ないんだろう」か。

1度は死んだ身と言って差し支えないのですが、9月の21・22日に日体大競技会というのがあってそこが本当にクラ対へのラストチャンスになりそうです。
しかしどうにも8月下旬あたりから左膝裏あたりに痛みがあって、それなりの期間練習量を抑えなければならなくなりそうです。少なくとも今週いっぱいは走るのをやめて、来週ちょこっと走ったらまたすぐ大会を迎えることになります。
2回目の死ももはや眼前なのですが、最初から負けるために走りに行くわけではないのでせめて出来ないなりに策を弄するつもりではいます。

「あんたはなんでもかんでも考えこむから、せめて前向きに考えこみなさい」って言われたけど、多分考えなしに行動して失敗したことが多くあった反省もあるんだろうし、前向きに考えこんで勘違いに傾倒するのが嫌だから後ろ向きにばかり考えこむんだろうなと思う。
次はいつまた清々しい気持ちで大会を終えられるだろうか。
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岐路

最近様々な場面で岐路に立たされているなと感じることが多い。
ここでの選択1つで今後何十年という人生の方向が定まるんだろうなーみたいな。

今までだって例えば受験とかでそういう岐路は経験してきたわけだけど、思い返すとすごい適当に決めてそれでもなんとかなってきてしまったという印象が強い。
好きなことだけやろうとふらふら選んできたもので、それを思うたびに好きなことを制限かけずにやらせてくれた親の偉大さに気付かされます。まぁ私立は学費が高いからって滑り止めをロクに受けられなかったのが唯一の制限っちゃあ制限かもしれなかったけどそんなに負担だと感じたことはなかったな。

好きなことだけしてきたせいで「理不尽さ」への耐性が低い気もする。これからもいつまでも好きなことをやり続けていたい、いられるだろうみたいな甘さがある。でもさすがにもうそういうことばかりじゃないことに気付くべきだとも思う。
わからないなりにやり続けることでわかることもあるのかもしれないし…

何かを選ぶときはいつも何かが足りないまま選ぶハメになるもんですよね。

メリトクラシーと存在

昨日の話のオチは妥協礼賛な自分の考えの正当性を声高に叫んでるところだったのかもしれない。
ということで寝てる間に思いついた昨日の続き。

スポーツは本質的に他人との優劣をつけるために技を競うものであるという話もありまして、そうである以上競技スポーツを行うコミュニティ自体がメリトクラシー(能力主義)に支配されるとまではいかないにしろある程度そういう面を備えなければならないのは当然っちゃ当然なんですね。勝利というのは敗者の屍の上に成り立つものだし、コミュニティの内部でさえレギュラー争いというような形で勝負は起こり得るものです。
陸上は数字というわかりやすいもので結果が出ることが魅力でもあり危うさでもあって、実力が顕在化してしまうことで構造を実感としてモロに食らってしまうんですよね。それによってメリトクラシーから疎外される人が必ず出てくるわけで、そういったケースにどう対処するかについて ⅰ)コミュニティそのものから排除する か ⅱ)メリトクラシー以外の価値によって正当化する の2つの選択肢があるのではないかと思います。前者を選ぶのがプロスポーツ集団ですね。

メリトクラシーのもとでパフォーマンスを追求していくと、その先で「なぜここにいる"私が"それをするのか」「なぜここにいる"彼と"それをするのか」みたいな存在論っぽい?話にいずれ行き着くのではないかと思います。
例えば「リレーメンバーって"私"じゃなくても、同じように足の速い"私のような誰か"でも代用できるんじゃないの?」みたいな、人々のまなざしの方向が人格ではなくて数字とか能力に向かってしまうということです。
新歓期あたりはそれが顕著で、「~~が出来る人に入って欲しい」なんて言葉はよく聞きます。じゃあその「~~」が別に出来るってわけじゃない人の所在はどこに求めればいいのよって話ですよね。
そこで「妥協」とか「努力」という言葉を上手く使うことによって人々をリーチングする必要があるわけです。「今ここにいる"私が"・今ここにいる"彼と"・(客観的に見て)最高のパフォーマンスを発揮するのだ」という形で主張することになるのですが、やってることは要するにメリトクラシーへの無理やりな包摂です。リーダーに強烈なカリスマ性があって構成員をうまいことトランス状態に落とし込めるならそれで上手くいくんでしょうけど、結局は堂々巡りなんですね。
よしんば客観的に見て必ずしも高いパフォーマンスが発揮できなかったとしても事後に論理をすり替えていきなり過程がどうこうみたいな話をし始めるから便利なものです。

ただ組織運営のことだけ考えると画期的なやり方もあるもので、コミュニティの内部にさらに小さなサブコミュニティを作ってしまって、そのサブコミュニティを先述のⅰ)の論理で突き動かすというのもあるようです。サブコミュニティから疎外されても元のコミュニティが受け皿になってくれると。
しかしこれは対処療法的なもので根本的な解決になっているわけではありません。受け皿となる元のコミュニティはⅰ)とは異なる論理によって運営されなければこれもまた堂々巡りになるわけです。
根本的な問題は「メリトクラシー"への"疎外」にある人たちをいかに救い出すかということにあるのですから、ⅱ)を追求しなければなりません。

ここまで書いておいてなんですが、メリトクラシーと異なる価値というのは想像以上に多様なものです。それこそ地面を踏んで景色の移り変わりを眺めることに楽しみを見いだせる人もいたり。文章におこすだけ無粋な世界があるのでしょう。
それに僕自身が考えてるよりも精神的に芯の強い人が多いもので、今現実に勝者たりえなくてもメリトクラシーの中に自らを投げ込める人もいるんですね。実際それで絵に描いたようなサクセスストーリーを歩んでいく人もいて、それは素直に尊敬すべきだと思います。
最終的には自分で拾い上げて納得できるかどうかになってしまうため、コミュニティとして働きかけられることがあるとすれば出来るだけ多くの視点・アプローチを与え続けてその中で気に入るものを選び取ってもらうことぐらいなのかもしれません。ここまで来てこんなふわふわしたことしか言えないのが不甲斐ないですけど。
まぁそうですね…本当にスポーツの本質が競争にあるのかを疑えばいいのかもしれません。他人と優劣をうけるのとは違う形で欲求を昇華させるような生き様があればそれこそがオルタナティブ足りえるはずです。だからこそ為末も禅みたいな東洋思想に答えを求めにいったのではないかなと。

だんだん文章としての落としどころがわからなくなってきた。
要するに今ここにいる"私"や今ここにいる"彼"という存在がメリトクラシーに根拠を置く構造から自由なあり方によってアイデンティファイされた方が救いがあっていいよねって話がしたかったのかな。
逃げ道があることを知らないのと、知っている上で何かを選び取ることには大きな違いがあるので、頭の片隅にでもなんらかの理解を置いておくことは大事なのかもしれませんね。

妥協

「妥協」

妥協。

かれこれ何時間か、幾度となくこの言葉を反芻し続け、考えがまとまらず広がり続ける一方なので書きながらまとめようと試みる次第。

きっと自分は妥協という言葉が嫌いなんだろう。しかし妥協という言葉の意味が嫌いというよりは、その使われ方や妥協という言葉を口にする人の考えていることが嫌いなのではないかと思う。おおよその人とは少し違った理由で妥協という言葉が嫌いなんだろう。
要するに自分は妥協という言葉を引き合いに出すことで人の生き様を規定しようとする態度が気に食わないのではないか。



そういう自分の生き様はというと「妥協」にまみれてるわけで、そうであればこそ、生き様を規定される対象に自分がなりえるからこそ、それに反発しようとするために気に食わないとか言い出しちゃうわけです。「顔真っ赤www」ってやつ。
いつからこうなのかなーというルーツを探るべく、別の意味で顔が真っ赤になるのをこらえながら昔のブログを漁ってみたりなどし、やっぱり1年冬ごろの部活が契機だったのかなという結論に至り。
「走れば走るほどに走ることから遠ざかり
走らなければまた走ることから遠ざかる」
よくこんなこと書けたなーなんて。
自分の中で何かが壊れたその決定的瞬間に使われた言葉も「妥協」だった気がするんですよね。言った人に対して感情的にどうこうみたいなのは今更別になんもないですが、やはり事実としてなかなか忘れられるものではないなと。まー遠い昔の記憶なので自分に都合のいいように改竄されてるのかもですけどね。

それと似てるんですが、もっと深いところにある「のめりこめなさ」みたいなものもあって、それがいつから、どういう理由からあるのかはわからないんですけど。
特にゲームとかやってて「やり方」を覚えるまでは早いけど「勝ち方」「立ち回り方」を覚えるのが絶望的に遅い、また覚えようと努力することもない。みたいなところがありまして。それで麻雀離れしたとかいうエピソードもあるとかないとか。あとはスマブラも下手だし将棋やチェスは駒の動かし方しかわかんないな…
大方のものは「上達しようとするために時間を割くほどそれを愛せない」みたいな理由があったりします。とはいえそんなことを言うほど愛せたものがこれまで1つでもあったのだろうかと思うと疑問ですね。陸上ですらそうだとはハッキリ言えないのかもしれない。

自分の中では何物にものめりこめない生き様も広く浅くでそれはそれで面白いかなーなんて納得しているけれど、何物かにのめりこめる生き様というものにもたまには憧れたりしますね。その人はきっと自分には開けない扉を開くことができて、自分には見ることのできない世界を見ているはずなわけで。



なんでいちいちこんな話をしてしまうのかといえば、こんな話が問題として浮上するような環境にいるからなのかもしれない。有り体に言えば「努力からの疎外/努力への疎外」とでも言うんですかね。妥協が許されなくてなんとなく居づらいのは、妥協が許されない環境に生きているからだ、みたいな話。さすがに言い方が雑すぎるわ。
自分1人でやってるならこんな話そもそも問題にすらならないんですが、コミュニティとしてある以上そういうわけにもいかないので、コミュニケーションを成り立たせるためにはダブルスタンダードにならざるを得ない。そこでなんらかの影響を受けて自己変容があってもおかしくはないはずなんですが、そうなる面もあるしならない面もある。やはり住んでる世界と信じている神が違う同士の接触となると争いとして表出することもあれば和解として表出することもあるのかな。
なんかこうヘラヘラしながらうまいこと人の目をごまかして納得させられるぐらいに迎合していく感じがいいんですけどね。それも1つの「妥協」なのかもしれない。



なんか昔は「いかに自らの正当性を保証するか」って考えてた気がするのに今は「いかに落としどころをすり合わせるか」って考えてる気がするな。
じゃあやっぱり自分は「妥協」って言葉が好きなのかもしれない。

独論メモ1

漠然と考えていることをとりあえず整理しておこうと思いまして。

まず自分の主要な問題関心は「日本のジュニア・ユース世代のスポーツ受容」っていうタイトルに無理やりまとめてみたもので、簡単にまとめるとそれまでスポーツに深くコミットして来なかった人間がだいたいは部活動という仕組みの中でスポーツを受容していく過程があって、その中でスポーツはどのようなものとして受容されていくのか、本当はさらにそこからどのように「スポーツ観」なるものが形成されていくか、ということを研究したいと思っています。
具体的に考えると、部活動でよく「挨拶が大事」とか「挨拶がきちんと出来る人間が強くなれる」みたいな言説がありますが、だからといって挨拶の練習をして競技パフォーマンスが上がるわけではない。にも関わらず挨拶という道徳的観念とスポーツの競技パフォーマンスは部活動という場においてしばしば結び付けられる。ということは部活動という仕組みの中でスポーツを受容してきた人間のスポーツ観には少なからず道徳的観念が反映されるのではないか。そうなると例えば一時の亀田興毅のような「パフォーマンスは高いが不敵な態度を取る」というあり方を受け止めるのに葛藤が生まれるのではないか。みたいな感じですね。
昨年スポーツ基本法が制定されて国民のスポーツを行う権利が保証されて、またレジャー産業の資源としてだとか途上国開発の手段、また競技スポーツそれ自体としてなど様々な可能性を孕むスポーツを、人々はどのように捉えるのか。スポーツに触れる主要な入り口としての部活動に注目することでなにか解き明かせることはないだろうかと考えています。
押さえておきたいのは自分の立ち位置。問題は「人々がどのようにスポーツというものを捉えるか」で、そのフィールドとして部活動を一旦選んだにすぎないので、時間軸としては中高生から先に伸びることもあり得るし、また「部活動論」ではないことを忘れないようにしないといけません。

この問題を解き明かすための一次資料として、やはり部活動に自らもコミットしていく必要があるのだと思います。要するにそれまで素人だった人が部活動を通してスポーツマンになっていく過程を追うことになるんですが、現時点でそれはもう無理なわけですね。最低でも来年4月から始めて卒論に間に合わせられるのだろうかといったところで、この辺りは指導教官とも話をしてみないことにはわからないところです。それとせっかく人類学のゼミにいるのにフィールドワークによって一次資料を集めないのはもったいないし他との差別化につながらないよねってのもあります。まぁ僕が対象にしようとしてるのが日本の部活動だからやろうとした時に敷居が低いことも相まってるんですけど(例えば途上国開発をテーマにしてる人はやはり敷居が高くて問題を解き明かす以前にフィールドワークの実現可能性に阻まれている印象があります)。
仮に卒論でフィールドワークをするとしても独論はもうその手が使えないと決まったわけなので、文献とアンケート調査みたいなもので一次資料を集められるようなテーマに変える必要がありそうです。なので独論段階では先日提出したタイトルからはかけ離れたものになりそうですね。今考えているのは「なぜ部活動という仕組みが維持されるのか」というインセンティブの面からの考察なんですが、ここも相談しなければならないところです。

(少なくとも)来年の話なので鬼が笑ってしまうのですが、いざフィールドワークを行うとして果たしてそれが適切に行われているといえるのかというのも重大な問題です。一次資料が不適切であったならばそれ以降の話が破綻してしまうからです。
フィールドワークは参与観察、つまり観察者たる自分もそのコミュニティの中に含まれるという形態を取ります。部活動を観察する僕自身が、部活動の人々にどのようにまなざされるかということが問題になるのです。観察者の存在は少なからずそのコミュニティに影響を与えます。
今考えつく最も深刻な問題として、例えば僕が陸上部をフィールドとして設定したとすると、部員が僕に技術指導を求める場面があり得るかもしれません。そこで本当に技術指導を行なってしまえば僕は観察者ではなく外部指導員として必要以上にその部活動に関わってしまったことになり、「本来あるべき部活動の姿」を正しく記述することができなくなってしまいます。それでなくともまずそもそも顧問ではなく部外者たる自分に何らかの指針を求めようとすること自体が「本来あるべき部活動の姿」とは言えないでしょう。
反対にほとんど知識のないサッカー部をフィールドとして設定したとすると、今度は僕自身の中でそのスポーツの習熟度に関する尺度を持ち合わせていないことになり、その部活動を観察していても何をもって素人からスポーツマンへと昇華したと呼ぶのか適切に記述できるかという不安が生じます。
観察者の関与がある時点で、そこにあるのはカッコつきの「真実」でしかあり得ないのですが、それの純度をいかにして高めるか。どのようにフィールドワークを行い、またそれをどのように論理付けて正当性を証明するか。恐らくこれが最も厳しい作業になるのではないかと思います。

ということで
・主要な問題関心と自分の立ち位置
・一次資料の制約から生じうる独論のテーマの変更
・卒論のフィールドワークの計画
あたりを少なくとも秋学期が始まる前に指導教官に相談しよう、というところでメモ書き終わり。

またなんか思いついたら書きます。

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プロフィール

HN:
KANI
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上 ゲーム アニメ
自己紹介:
筑波大学に通っております。
同好会で陸上をする傍ら学業をしています。
スポーツに関わりたいと思いつつどういうアプローチをすればいいのか模索中。
一人でいることが多いですが寂しくなんかないんだからね。

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