「妥協」
妥協。
かれこれ何時間か、幾度となくこの言葉を反芻し続け、考えがまとまらず広がり続ける一方なので書きながらまとめようと試みる次第。
きっと自分は妥協という言葉が嫌いなんだろう。しかし妥協という言葉の意味が嫌いというよりは、その使われ方や妥協という言葉を口にする人の考えていることが嫌いなのではないかと思う。おおよその人とは少し違った理由で妥協という言葉が嫌いなんだろう。
要するに自分は妥協という言葉を引き合いに出すことで人の生き様を規定しようとする態度が気に食わないのではないか。
そういう自分の生き様はというと「妥協」にまみれてるわけで、そうであればこそ、生き様を規定される対象に自分がなりえるからこそ、それに反発しようとするために気に食わないとか言い出しちゃうわけです。「顔真っ赤www」ってやつ。
いつからこうなのかなーというルーツを探るべく、別の意味で顔が真っ赤になるのをこらえながら昔のブログを漁ってみたりなどし、やっぱり1年冬ごろの部活が契機だったのかなという結論に至り。
「走れば走るほどに走ることから遠ざかり
走らなければまた走ることから遠ざかる」
よくこんなこと書けたなーなんて。
自分の中で何かが壊れたその決定的瞬間に使われた言葉も「妥協」だった気がするんですよね。言った人に対して感情的にどうこうみたいなのは今更別になんもないですが、やはり事実としてなかなか忘れられるものではないなと。まー遠い昔の記憶なので自分に都合のいいように改竄されてるのかもですけどね。
それと似てるんですが、もっと深いところにある「のめりこめなさ」みたいなものもあって、それがいつから、どういう理由からあるのかはわからないんですけど。
特にゲームとかやってて「やり方」を覚えるまでは早いけど「勝ち方」「立ち回り方」を覚えるのが絶望的に遅い、また覚えようと努力することもない。みたいなところがありまして。それで麻雀離れしたとかいうエピソードもあるとかないとか。あとはスマブラも下手だし将棋やチェスは駒の動かし方しかわかんないな…
大方のものは「上達しようとするために時間を割くほどそれを愛せない」みたいな理由があったりします。とはいえそんなことを言うほど愛せたものがこれまで1つでもあったのだろうかと思うと疑問ですね。陸上ですらそうだとはハッキリ言えないのかもしれない。
自分の中では何物にものめりこめない生き様も広く浅くでそれはそれで面白いかなーなんて納得しているけれど、何物かにのめりこめる生き様というものにもたまには憧れたりしますね。その人はきっと自分には開けない扉を開くことができて、自分には見ることのできない世界を見ているはずなわけで。
なんでいちいちこんな話をしてしまうのかといえば、こんな話が問題として浮上するような環境にいるからなのかもしれない。有り体に言えば「努力からの疎外/努力への疎外」とでも言うんですかね。妥協が許されなくてなんとなく居づらいのは、妥協が許されない環境に生きているからだ、みたいな話。さすがに言い方が雑すぎるわ。
自分1人でやってるならこんな話そもそも問題にすらならないんですが、コミュニティとしてある以上そういうわけにもいかないので、コミュニケーションを成り立たせるためにはダブルスタンダードにならざるを得ない。そこでなんらかの影響を受けて自己変容があってもおかしくはないはずなんですが、そうなる面もあるしならない面もある。やはり住んでる世界と信じている神が違う同士の接触となると争いとして表出することもあれば和解として表出することもあるのかな。
なんかこうヘラヘラしながらうまいこと人の目をごまかして納得させられるぐらいに迎合していく感じがいいんですけどね。それも1つの「妥協」なのかもしれない。
なんか昔は「いかに自らの正当性を保証するか」って考えてた気がするのに今は「いかに落としどころをすり合わせるか」って考えてる気がするな。
じゃあやっぱり自分は「妥協」って言葉が好きなのかもしれない。
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