いつも年度末はその年の振り返りだったんですけど、卒業したというのもあるのでせっかくだからこのテーマで。
国際総合学類生として過ごした4年間が、果たしてどんな意味を持っていたのか、なんて。
これを語るためにはまず高校3年生の春、あるいは高校2年生の冬まで遡らなければなりません。
死にたくなる気持ちと必死に闘いながら昔のブログを読み返していると、志望校を固めた時期にこんなことを書いていました。
"僕が筑波を選んだ理由といえば、端的には、国公立の中でも抜群に陸上が強いこと、それに色んな学類の授業をとれるので二者択一が出来ないあれもこれも欲しがりな自分にピッタリな場所だと思ったからです。高校選びとだいたい同じですね。
「なぜ国際総合学類か?」と聞かれると、実ははっきりとは答えられない。だから「発展途上国の開発に興味がある」とか「国連で働きたい」とか言う人とはモチベーションに決定的なギャップがあって、時にそれがコンプレックスに感じたりもします。"
このようにとってもふわふわしています。出発点からこんな感じだったので、国際総合学類に対する思い入れも無ければ知識もない。海外に意識が向いているわけでもないし、どんな授業があるのかやみんながどういう学生生活を送っているのかもわからない。そもそも女の子の方が人数的に多いということも受験期には全く知らず、入試会場でようやく察した。ちなみに同期の女の子は上下の代と比べると「キセキの世代」だった。と思います。
それでも漠然と大学生活に鮮やかな思いを馳せていたように思います。学類紹介の冊子は何十回も読み返しました。ただその中で一番印象に残ったのは、授業紹介でもOBの輝かしい足跡でもなく、とある人が書いた学類に対するイメージの言葉、
「通過点としては悪くない。」
でした。
女の子の目を見て話せない病のステージ3にあった入学時のぼくにとって国際総合学類のリア充オーラは眩しすぎました。なにしろ学類の自己紹介ではみんな口をそろえて「国際系サークル」という海で隔てられた田舎者のぼくにはとんと聞き慣れないものに入るというのです。ぼくは海外でインターンシップをして圧倒的成長しようとか難民と共に歩もうとか飢餓と戦おうとかいうモチベが沸かず、受験期から思い描いていたとおり、授業が終わったら陸上漬けという中学校から変わらない生活を送ることにしたのでした。
センター試験・2次試験共に平均を上回る点数で入学したものの、まさか入学後に3次試験「新歓」があるとは露知らず、ぼくはそこであえなく不合格。女の子どころか同期男子とも目を見て話せない。お昼を学食で食べるときには国際生からなるべく遠ざかって1人で食べるという灰色の大学1年生の春…まぁこれは陸上同好会の方で散々ネタにさせてもらってある意味オイシかったという見方もあります。
あとよく国際生の思い出話の1つとして「1年春の必修の経済学をみんなで協力してやったこと」が挙げられるらしいんですが、当時の僕はそもそもどこで躓くのかもわからないまま1人で全部やってしまったのでそんな思い出は存在しません。勉強でガチりすぎると周りから浮いてイジメの対象になることをぼくたちは小学校のときに学んでいるはずなのになぁ。
時は前後して、ぼくの学生生活を語るときに(とても不名誉なことですが)外せないものとしてTwitterがあります。
Twitterのアカウント自体は高2の5月から持っており、主にふぁぼったーというもはや過去の遺産となったサービスを見て面白いツイートをしている人を片っ端からフォローして上質なギャグに触れたり、「クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!」から実況TLというものを知ってポロロッカ的にプリキュアにのめり込んだりというようにまさしくデジタルネイティブエリートオタクとして使いこなしていました。この頃からTwitterのリアルタイムな強さや面白さみたいなものを漠然と認識していたのです。
そして高3の11月、「リアルな学生生活を知るには中の人の様子を見るのが一番手っ取り早いのでは?」という悪魔的発想からbiographyに「筑波」や「国際総合」、「CIS(国際の略称)」とあるアカウントを片っ端からフォロー。ツイートを見るだけにとどまらず時にはリプライで会話したりも。落ちた時のことなんて一切考えていなかったらしい。ちなみに後から話を聞くとこれは先輩方の間でも結構話題になっていたとのこと。
そんなこんなで同期たちよりも5ヶ月ほど早く先輩方と仲良くなってしまい、話す回数も先輩たちのほうが圧倒的に多くなってしまいました。ぼくたちの代は29期だけれど、ぼく自身は28.3期ぐらいでした。
そしてTwitterが世間的にも流行り始めたのがぼくたちが1年生の頃で、同期も続々とアカウントを作っていきました。程なくしてぼくのアカウントも「ツイート数多すぎてタイムライン埋まるからフォローしない方がいい」という感嘆の言葉とともに周知されていき、ぼくの立場は「よくわからない人」から「よくわからないけどTwitterでは元気な人」にクラスチェンジ。肉眼で観測できたらラッキーなパンダ的存在になりました。
パンダなことを自覚していたぼくはそのレアリティを最高に保つというキャラ作りにも余念がなく、学類での免許合宿、学祭には不参加。新歓も「そういえばいたかもしれない」程度の参加率でした。ただ2年の後半ぐらいからはこんな生活に物悲しさを感じ、飲み会なんかも出来れば出たいなぁという気持ちになってはいたんですが、毎度毎度なぜか陸上同好会の飲み会が被るという悲劇から期せずして更にレアリティを高めるはめに。
灰色の学生生活にあっても裏切らないものといえば勉強ですね。ぼくたちが1年生の頃は「留学したいので早めにたくさん単位をとっておきたいんです!(ウルウル」という旨をA4用紙にしれっと書いて窓口にシュゥゥゥーッすることで気軽に超過履修申請をすることが出来、ぼくも一応乗っかって上限45単位のところを53.5単位ほど取ることに。
意識が高いうちにこういうことをやっておくのは本当に大事で、ほぼ毎日フルコマなのを淡々とこなし、淡々とスレスレのラインでAを取り、2年生になって時間割の自由が効くようになったところで意識がプッツン。1・2限に授業を入れない意志を強く示し、1年で40単位も取らない低空飛行。卒業する今になって見返すと割とギリギリでの卒業と相成りました。本当に19歳のぼくはよく頑張ってくれた。ありがとうありがとうそしてありがとう。
国際の授業の話に移ります。学類紹介では政治や法、経済、文化、環境工学等々色んなものを学べるとあるんですが、授業数を比べると政治系が比較的多くて文化系は少なかったりなどの力関係があります。
必修でそれぞれの分野の触りをやるんですがどれものめり込めるほどの魅力を感じず将来卒論とかどうするんだろうなんて不安になったのですが、唯一文化人類学の授業がものすごく自分に合ってる感じがして、これなら何とかなりそうだという希望を抱けたのでした。
しかし実際に受けてみてわかったのですが国際総合学類の授業は意外と自由度が少ないんですね。文化系の授業を中心に取っていきたかったのですが、何故か文化系は英語での授業が多く、そのためにリスニング能力を鍛えようというモチベもなかったぼくは卒業単位集めのためにそれほど興味のない政治系の授業を中心にかき集めることに。だいたいは提出期限ギリギリにトイレットペーパー未満のレポートを書いて一応Bぐらいを取っておき、長期休みに入った瞬間に授業で耳にした(気がする)情報を一気にトイレに流すというプレイングでやり過ごしました。
2年生になってからは親に対しては芽生えなかった反抗期の感情が国際総合学類に対して芽生えてしまい、学類の選択授業をあまり取らず、専ら体育専門学群の授業を取る人に。結局卒論もスポーツ関係で書いたしここでの経験は無駄どころかむしろ糧になったと言えます。少なくともトイレに流してしまった諸々の授業よりは、ね。
そんなこんなで3年生。ゼミに配属されることとなります。2つ見学に行って、結局1年生のときにぼくと文化人類学を引きあわせてくれた先生の元へ。
ゼミ同期のメンツが発表された時は「この先生きのこるには…」と思ったものでした。ぼく以外の人々はぼくの名前を見て「どうしよう」と思ったそうです。そりゃまぁ電脳世界上でしか活発な姿を見られない希少生物とリアルな場で討論出来るかなんて不安で仕方がないでしょうなぁ。
しかしゼミというのは本当に素晴らしい空間で、勉強を頑張るとそれだけで存在理由をもらえます。小学校から受験期の高校ぐらいまでランクアップしたのです。ゼミでは割と一生懸命頑張って発言してたんですが、そしたらいつの間にかパンダ的存在であることではなく発言をありがたがってもらえるようになり、不安で仕方がなかった出発当初からは考えられないほど仲良くなりました。ゼミを通して初めて国際生らしさみたいなものを味わいました。
ゼミだけは皮肉もなにもなく本当に楽しかったです。OB会は死ぬまで毎年参加しようと思ってます。
卒論を出し終わってニート生活を満喫していた2月末、なんの気の迷いかぼくは国際総合学類の卒業旅行に行っていました。そもそもの参加表明が半分以下、そこから更にメンツ見てからなのがバレバレな露骨ドタキャンもあって全体の1/4ほどでの旅行。これで「"学類の"卒業旅行」と呼べるのかは参加者の気持ち次第ーみたいなものに行っていました。実際申告次第では行かずに2万円で美味しいものでも食べれたはずだろうに、結局ぼくは行っていました。
蓋し卒業旅行といえば今までの思い出を振り返ってしんみりしたりするものなのかなと思ってるんですが、ぼくのモチベとしては「このまま学類のイベントに全然参加しないままで終わったらなんのためにここに来てこの人達と出会ったのかって思っちゃうよなぁ」というものでした。振り返る思い出がないので卒業旅行で無理やり作りに行ったのです。
しかし新歓でコケた遅れは取り戻しきれず、やっぱり本質的にはパンダのままでした。
自分から積極的にコミュニケーション取りにいけなかった1年生の自分の内気さを再確認し、それが4年たっても結局大して変わってないことに気付き、どこでどうすればマシになってたのかなぁと嘆くばかりでした。
…なんて暗い話ばかりでもなくて、それなりに話したり遊んだり出来てそれなりに楽しかったんですけどね。
卒業式の日の夕方から学類の追いコンに出ていました。みんなでこれまでのことやこれからのことを語る場だったわけなんですが、自分は気づけば先輩方に構ってもらってばかり。あとはゼミの人たちとわいわいしたぐらい。100人近くいる場にあって自分の交流範囲の狭さを思い知りました。
最後の最後でゼミの同期がしたスピーチが非常に感動的で、割と多くの人が別れを惜しんで涙を流したりしていたわけなんですが、やっぱりぼくにはそれが出来ませんでした。
国際総合学類生というきらきらした人たちは、彼岸の存在に思えて。
自分が言うのもなんですが国際総合学類という場は大きなチャンスが転がったなかなかすごい場で、そういうのをきちんと掴んでいくいわゆるメインストリームにある人達もなかなかすごい人達です。田舎者のぼくには想像もつかないものを見て、体験して、そしてこれからもっとすごい舞台に飛び立っていくらしい。
ぼくはというと留学のためにバイト頑張ってお金を貯めるぞーとか、語学を頑張るぞーとか、インターンするぞーなんてモチベがなく、ただただコンプレックスだけを募らせて傍観しているでした。コミュニケーション能力だけじゃなく、そもそもの感性が内向きで田舎者だったのです。
本当はもっと鮮やかな学生生活を送れたのかもしれないのに、自分は結局自分を変えることが出来ずに、ただただ通り過ぎていってしまった。
だから自分も学類紹介冊子に書いてしまいました。ぼくにとって国際総合学類とは――
「通過点としては悪くない。」
PR