続きです。今までは歴史の話でしたが、今回は現代の話。
これまでもスポーツのあり方はそのときそのときの社会のあり方によって規定されてきたのですが、現代ではメディアによってスポーツが大きく姿を変えています。
近代以降のスポーツにおいて"勝利"のもつ価値が増大したことは前回触れましたが、それによってスポーツの試合は応援している側への帰属意識を強く喚起するものになりました。例えばオリンピックのような国別対抗戦では国民のナショナリズムを呼び起こすものとしてスポーツは捉えられました。
メディアもまた戦争期の頃に国民のナショナリズムを呼び起こすものとして利用されました。当時だと新聞やラジオですね。
人々をなにか1つの方向にまとめ上げるものとしてのスポーツとメディアの親和性の高さをうかがわせます。
世界規模のスポーツイベントと放送の技術革新はシンクロしながら進行して行きました。テレビの発明や衛星放送の発達は臨場感あふれる映像を世界中に発信出来るようになり、またリプレイを参照できるようになったことは試合中のジャッジの精度向上に貢献するなど、互いに良い影響を与えてきました。
経済的な面についてもスポーツとメディアは密接につながっています。メディア側は文化事業戦略としてスポーツの価値を高く評価しています。「事実は小説よりも奇なり」で、どんでん返しがあって先の読めないスポーツはコンテンツとしての魅力が大きいですからね。そしてスポーツ側もメディアに放映権料という試合の放送を独占出来る権利を売ることによって財源を確保しているのです。
このようにとても仲良しに見える両者ですが、この構造には落とし穴があります。スポーツ側は財源の多くをメディアに依存しているのに対し、メディアはスポーツ以外にも多様なコンテンツを取り揃えているため選択肢が広く、相対的にメディアはスポーツよりも高い地位にあると言えます。スポーツはメディアに頼らざるを得ないのですがメディアはいざとなったらスポーツを切っても大丈夫ということです。そしてこの上下構造はスポーツ界にとって良くない影響を与え始めています。
1つはルール改正です。現在のスポーツのルールには「放送時間枠の関係で」改正されたものが少なくありません。
古くはバレーのラリーポイント制ですね。今ではなんの違和感もなく受け入れていますが、昔はサーブ権があるときのみ点が入るサイドアウト制が取られていましたが、これでは試合時間が長すぎるという理由から現在のようなラリーポイント制に変わったのです。
また最近の例だと陸上競技のフライング一発失格も放送時間枠への考慮から取り入れられたものです。まぁ昨年の世界陸上でボルトが失格になってエンターテインメント性が大きく損なわれたからこれについてはもう一度考えなおそうかみたいなメディアのご都合主義な茶番もあったらしいですが…
ちなみにフライングについては
こちらで記事を書いてるので見ていただけると嬉しいです。今回の記事ではメディアによるルール改正を「良くない影響」と表現してはいますがフライングについてはここにある通りルール改正受容側ですね。これについては号砲通りに出ることも含めて競技力と考えていますので。
放送時間枠の影響に関して僕が最近知って驚いたのはテニスのデュース廃止というものです。確かに40-40からのアドバンテージのやり取りは時間がかかるものですが、テニスをしている人から言えばデュースがあることによって生まれる駆け引きもあるとのこと。確かに劣勢の状態でも40-40までこぎつければ相手をゲームポイントから1つ遠ざけることが出来るというのは精神的に大きいだろうと思います。デュースが廃止されればとにかく先行逃げ切りになってしまいますもんね。
ルール改正は哲学的な問題をはらんでいるように思います。デュースが廃止されたテニスが続けばテニスはデュースがないものとして人々に受け入れられ、それに合わせた戦略が生まれる。これはテニスが進化したものなのか、それともテニスではないなにか別のスポーツなのか。どこまでがテニスとしてあるべきルールで、どこまでがなくなってもテニスとして受け入れられるルールなのか。なにをもって"テニス"を定義するのか…
ここで1つスポーツとまったくかけ離れた例を出します。現在世界中で英語が使われていますが、これによって他の言語がなくなってしまうのではないかという問題があります。あまりに話者が少ない言語は消滅危機言語と呼ばれていますが、私達が使っている日本語などもやがて英語の圧力に押されて消滅するのではないかという言説さえあります。まぁ突拍子もない話だとは思いますが、日本においても標準語の圧力によって方言が廃れたことや、英語教育の早期化が進んで国語力の低下が謳われていることなどを鑑みるとあながちトンデモ理論ではないようにも思えますね。
こういった英語による文化侵略から言語を守るために、例えばフランスではトゥーボン法というフランス語の使用に関する法律なんてものがあり、公共の場では英語ではなくフランス語を使うように法律で定めてしまっているそうです。
話を戻しまして、こういうのをスポーツに応用するとどうなるんだろうなーとか思うわけです。スポーツにおける法律というとルールですが、そこでそのスポーツの定義を書いてしまうことでメディアの圧力にも屈しない体系が出来上がるのではないか…なんて。しかしルールを執行するものがスポーツの側に内在する以上、やはりメディアが上位に位置するという構造に変わりはないわけでやっぱり上手くいかないんですかね…
もう1つの問題としてスポーツ選手のタレント化が挙げられます。女子サッカーチームがW杯で優勝したあと「なでしこジャパン」の名が一気に広まり、それだけで価値を持つようになって、選手がバラエティ番組に出るようになったりしましたよね。
注目が集まるものをメディアは欲しがるわけですから、スポーツの場面で名声を上げた選手などは格好の的だと言えます。スポーツの場面でコンテンツ化した選手を、スポーツ以外の場面でも別のコンテンツとして扱うことで更に稼ごうというわけですね。殊にスポーツ選手は人並み外れた能力を持つというイメージがあるため、日常生活を映して一般の人々と近い次元に立たせることによってギャップが生じて興味を惹くんだとかなんとか。「普通」であることが逆にウケるみたいですね。
メディアの露出が増えるに連れアスリートとしての本分である練習が疎かになったり、また過剰なプレッシャーがかかることにもなります。特に後者について今のアスリートはメディアトレーニングというものを受けるそうです。インタビューでの受け答えなどについて勉強するんだとか。
スポーツにとってメディアは「厄介なお友達」だといえます。色々と迷惑をかけてきますが、いいところもあるし結局縁は切れないのです。
これから先スポーツはメディアとの付き合い方を考えていかなければなりません。様々な圧力を受ける中でスポーツの本質というものを明らかにし、少しでも独立した地位を築けるような努力が求められます。
そんなこんなで最後はこれからのスポーツについて書こうと思います。
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