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筑波大生のあれやこれ。

   

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スポーツと総復習 その3 スポーツとメディア

続きです。今までは歴史の話でしたが、今回は現代の話。
これまでもスポーツのあり方はそのときそのときの社会のあり方によって規定されてきたのですが、現代ではメディアによってスポーツが大きく姿を変えています。

近代以降のスポーツにおいて"勝利"のもつ価値が増大したことは前回触れましたが、それによってスポーツの試合は応援している側への帰属意識を強く喚起するものになりました。例えばオリンピックのような国別対抗戦では国民のナショナリズムを呼び起こすものとしてスポーツは捉えられました。
メディアもまた戦争期の頃に国民のナショナリズムを呼び起こすものとして利用されました。当時だと新聞やラジオですね。
人々をなにか1つの方向にまとめ上げるものとしてのスポーツとメディアの親和性の高さをうかがわせます。

世界規模のスポーツイベントと放送の技術革新はシンクロしながら進行して行きました。テレビの発明や衛星放送の発達は臨場感あふれる映像を世界中に発信出来るようになり、またリプレイを参照できるようになったことは試合中のジャッジの精度向上に貢献するなど、互いに良い影響を与えてきました。
経済的な面についてもスポーツとメディアは密接につながっています。メディア側は文化事業戦略としてスポーツの価値を高く評価しています。「事実は小説よりも奇なり」で、どんでん返しがあって先の読めないスポーツはコンテンツとしての魅力が大きいですからね。そしてスポーツ側もメディアに放映権料という試合の放送を独占出来る権利を売ることによって財源を確保しているのです。

このようにとても仲良しに見える両者ですが、この構造には落とし穴があります。スポーツ側は財源の多くをメディアに依存しているのに対し、メディアはスポーツ以外にも多様なコンテンツを取り揃えているため選択肢が広く、相対的にメディアはスポーツよりも高い地位にあると言えます。スポーツはメディアに頼らざるを得ないのですがメディアはいざとなったらスポーツを切っても大丈夫ということです。そしてこの上下構造はスポーツ界にとって良くない影響を与え始めています。
1つはルール改正です。現在のスポーツのルールには「放送時間枠の関係で」改正されたものが少なくありません。
古くはバレーのラリーポイント制ですね。今ではなんの違和感もなく受け入れていますが、昔はサーブ権があるときのみ点が入るサイドアウト制が取られていましたが、これでは試合時間が長すぎるという理由から現在のようなラリーポイント制に変わったのです。
また最近の例だと陸上競技のフライング一発失格も放送時間枠への考慮から取り入れられたものです。まぁ昨年の世界陸上でボルトが失格になってエンターテインメント性が大きく損なわれたからこれについてはもう一度考えなおそうかみたいなメディアのご都合主義な茶番もあったらしいですが…
ちなみにフライングについてはこちらで記事を書いてるので見ていただけると嬉しいです。今回の記事ではメディアによるルール改正を「良くない影響」と表現してはいますがフライングについてはここにある通りルール改正受容側ですね。これについては号砲通りに出ることも含めて競技力と考えていますので。
放送時間枠の影響に関して僕が最近知って驚いたのはテニスのデュース廃止というものです。確かに40-40からのアドバンテージのやり取りは時間がかかるものですが、テニスをしている人から言えばデュースがあることによって生まれる駆け引きもあるとのこと。確かに劣勢の状態でも40-40までこぎつければ相手をゲームポイントから1つ遠ざけることが出来るというのは精神的に大きいだろうと思います。デュースが廃止されればとにかく先行逃げ切りになってしまいますもんね。
ルール改正は哲学的な問題をはらんでいるように思います。デュースが廃止されたテニスが続けばテニスはデュースがないものとして人々に受け入れられ、それに合わせた戦略が生まれる。これはテニスが進化したものなのか、それともテニスではないなにか別のスポーツなのか。どこまでがテニスとしてあるべきルールで、どこまでがなくなってもテニスとして受け入れられるルールなのか。なにをもって"テニス"を定義するのか…
ここで1つスポーツとまったくかけ離れた例を出します。現在世界中で英語が使われていますが、これによって他の言語がなくなってしまうのではないかという問題があります。あまりに話者が少ない言語は消滅危機言語と呼ばれていますが、私達が使っている日本語などもやがて英語の圧力に押されて消滅するのではないかという言説さえあります。まぁ突拍子もない話だとは思いますが、日本においても標準語の圧力によって方言が廃れたことや、英語教育の早期化が進んで国語力の低下が謳われていることなどを鑑みるとあながちトンデモ理論ではないようにも思えますね。
こういった英語による文化侵略から言語を守るために、例えばフランスではトゥーボン法というフランス語の使用に関する法律なんてものがあり、公共の場では英語ではなくフランス語を使うように法律で定めてしまっているそうです。
話を戻しまして、こういうのをスポーツに応用するとどうなるんだろうなーとか思うわけです。スポーツにおける法律というとルールですが、そこでそのスポーツの定義を書いてしまうことでメディアの圧力にも屈しない体系が出来上がるのではないか…なんて。しかしルールを執行するものがスポーツの側に内在する以上、やはりメディアが上位に位置するという構造に変わりはないわけでやっぱり上手くいかないんですかね…

もう1つの問題としてスポーツ選手のタレント化が挙げられます。女子サッカーチームがW杯で優勝したあと「なでしこジャパン」の名が一気に広まり、それだけで価値を持つようになって、選手がバラエティ番組に出るようになったりしましたよね。
注目が集まるものをメディアは欲しがるわけですから、スポーツの場面で名声を上げた選手などは格好の的だと言えます。スポーツの場面でコンテンツ化した選手を、スポーツ以外の場面でも別のコンテンツとして扱うことで更に稼ごうというわけですね。殊にスポーツ選手は人並み外れた能力を持つというイメージがあるため、日常生活を映して一般の人々と近い次元に立たせることによってギャップが生じて興味を惹くんだとかなんとか。「普通」であることが逆にウケるみたいですね。
メディアの露出が増えるに連れアスリートとしての本分である練習が疎かになったり、また過剰なプレッシャーがかかることにもなります。特に後者について今のアスリートはメディアトレーニングというものを受けるそうです。インタビューでの受け答えなどについて勉強するんだとか。

スポーツにとってメディアは「厄介なお友達」だといえます。色々と迷惑をかけてきますが、いいところもあるし結局縁は切れないのです。
これから先スポーツはメディアとの付き合い方を考えていかなければなりません。様々な圧力を受ける中でスポーツの本質というものを明らかにし、少しでも独立した地位を築けるような努力が求められます。
そんなこんなで最後はこれからのスポーツについて書こうと思います。
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体の要

続き物はちょっとお休みさせていただいて軽いご報告(?)だけ。

1週間前ぐらいから腰が痛くて、その時は筋肉痛も併発してたのであんまり気にしなかったんですがどうも腰の痛みだけ抜けなくて今日の練習でも走りながらなんか力が入らない感じがして、とりあえず練習後に病院に行ったら軽いヘルニアだって言われました。
ヘルニアというか椎間板が少し薄くなってるとかそんな感じらしく、手術だなんだみたいな話にはまだならないみたいです。今日は鎮痛剤と貼り薬だけもらって帰って来ました。

直接的な原因があるとしたら筋肉痛の原因にもなったジャンプトレーニングかなと思います。そこから突き詰めると自分の体力不足でもあるんですけど…
それとパソコンで遊んでる時や勉強(この頃はまったくご無沙汰ですが)してる時の姿勢の悪さが慢性的に悪影響を与えていたのかもしれません。気づいた時にはだいたい手遅れってねー。

痛みに波があるとのことだったのであんまり無理はせずに、とのことでした。
今まで所謂「持病」的なのはあんまり持ったことがなかったんですがこれは結構長い付き合いになるヤツかもしれませんね…ストレッチとかもこのあたりを意識して作りなおさなければならないんですかね。あとサポーターとかも買ったほうがいいのかしらん。

リレー選手権はちょっと暗雲が立ち込めてきた、って感じですかね。
成果が望めないなら無理して走ることもないなと。リレーに出れなくなったらそれはそれで残念ですが。
思うようにタイム上がらなくてもやもやしてた矢先にこれで更にもやもや。調子の良かった昨シーズンを思うと焦りも加速してきます。クラ対でマイルを走った自負心とかも考慮に入れると尚の事。
しかしまぁ、現状をあるがままに見なければならないのだろうなと思います。

スポーツと総復習 その2 スポーツの源泉~近代以降~

前回の続きです。
前回は"sport"の語源と、古代から中世にかけてスポーツは野蛮な行いでもって気晴らしをするような俗的なものと、困難な課題を克服することに楽しみを見出しまた威光を示す聖的なものに分かれて発展していったというような話でした。

聖的な系譜をもつスポーツを好んだのは代々土地を継承しているような貴族で、彼らは上流階級に属します。逆に俗的な系譜をもつスポーツを好んだのは産業資本家で、彼らは一代で財を成した中産階級です。上流階級にとっては既得権益を守ることが重要で自由を求めてはいませんでした。中産階級にとっては競争によってのし上がっていくことが重要で自由主義的だったため、彼らは相容れない関係にありました。階級が下にいくにつれてより自由を求めるようになるというのがポイントです。
しかしそんな彼らに共通していた点として、スポーツに"工夫"を求めていた点が挙げられます。金も暇もあった上流階級の人々は、計画を破壊し困難を楽しむ"工夫"を、実力主義の中産階級の人々は計画を成就させ野心を叶える"工夫"をスポーツに求めていました。
やがて両者はパブリックスクールにおいて交わることとなります。

パブリックスクールの"パブリック"というのは上流階級でない人々にも開かれているという意味で、築いた財産を継承していくために教養を求めるということで中産階級の人々もここに通うようになりました。
しかし彼らは休み時間に俗的なスポーツに興じたため混乱を招きました。そこでラグビー校のトーマス=アーノルド校長はスポーツを規制するのではなく逆にスポーツを健全な心身の育成のために活用することにしました。生徒が自らルールを考えだす自治の精神を尊重し、スポーツを気晴らしのためのものから教育のためのものに変えたのです。
こうして生まれた近代スポーツは、上流階級が重んじた自己規律の性格と、中産階級が重んじた自由主義の性格を兼ね備えたものになりました。特に個人主義、アマチュアリズム、政治的中立というのが近代スポーツの主な特徴になります。ただこれらの意味するところは「スポーツは生活が十分に保証されている裕福な人のためのものである」というものです。例えばアマチュアというのは他の仕事によって生計を成り立たせる事を指し、スポーツによって生活をまかなうプロの存在についてはこの頃は否定的でした。
ともあれこうして生まれた近代スポーツはイギリスの世界進出に伴って教育的な意味合いから世界中に伝播していきます。

現代になってスポーツが世界中の人々にあまねく広がると、それにともなってスポーツも変化していきました。
例えば労働者階級のスポーツへの参入です。近代の中産階級は自由主義的な系譜をもちつつもやはり貴族をロールモデルとして捉えていたのに対し、労働者階級は自由主義に特化していたため、自己規律とは無縁でした。そのため貴族の間では自主的に守られていたスポーツマンシップが弱体化し、ルールの細分化や審判の必要性が増大しました。
また、アメリカンフットボールの登場は顕著な例です。アメフトはラグビーを元にしていますが、ラグビーではゴールに向かって前方向にパスするのが禁止されているのに対しアメフトでは前パスが有効です。こうしたルールの違いは自己規律による困難の克服を楽しむイギリスの風土と、制約に縛られない自由なアメリカの風土の好対照だと言えます。スポーツは伝播の過程でその地域の文化に合わせて変化していったのです。
最も大きな影響を及ぼしたのは勝利の社会的価値の増大でした。1894年以降開催されてきたオリンピックのような国際的関心度の高い場で勝敗が競われるようになると、近代スポーツにおいて重要視されてきた個人主義・アマチュアリズム・政治的中立という原則が揺らぐこととなります。選手は集団でのサポートを受けるようになり、またより強い選手を生み出すためにプロ化が進み、また国家の政策としてスポーツが取り入れられていきます。こうした近代的価値の衰退が現代スポーツの土台になっているのです。

現代になってスポーツは様々な意味を持つようになりました。政治的意味、経済的意味、教育的意味…そして様々な面から要請を受けることによりスポーツはその都度変化していきます。つまりスポーツはそれ自体が独立してあることはなく、社会がスポーツを規定するのです。
そして今日最もスポーツに対して影響を及ぼすものとして、僕はメディアに注目しています。

(無駄に引きを意識した感じで)つづく。

スポーツと総復習 その1 スポーツの源泉~古代から中世~

前々からやりたいと思っていたのが、1年間勉強してきた内容を元に文章を書こうという企画でした。
ということで総復習と銘打ってみたのですが、今の構想だとほぼ3学期の現代スポーツ論の復習になりそうな感じです。
何回かに分けて書くつもりで、今日は1回目。今日私達がスポーツと呼んでいるものの源についてです。

"sport"の語源はラテン語で「休養・気晴らし・娯楽」を意味する"deportare"から来ています。これがフランス語で"desport"という形になり、14世紀のイギリスでさらに"disport"という形になります。"disport"はdis/portと区切ることが出来、港-転じて労働力-を意味する"port"に接頭辞"dis"がついて「苦役からの解放」を意味するようになります。それが16世紀頃に"di"の部分がなくなって"sport"となり今に至るとされています。
"sport"は翻訳を必要としない普遍的な概念ですが、アメリカ英語では普通"sports"と表記されその意味合いもrecreationという面が大きいのに対しイギリス英語では"sport"と表記されその意味合いはleisureという面が大きいとのこと。解釈について地域差が生まれる部分もありうるということですね。例としてはチェスをスポーツと表現することが挙げられます。私たちはスポーツを身体運動として捉えがちですが、スポーツのもつ遊戯としての側面を拡張させるとこの解釈も不自然ではありません。
異なる解釈が存在することは多様性を生み出す反面論争の種にもなりかねません。20世紀以降スポーツが国際化していくにつれ根底に共通理解が必要となり、1968年のメキシコオリンピックのときにスポーツ宣言というものが出されました。そこでスポーツは「遊戯の性格を持ち、自己または他人との競争、あるいは自然の障害との対決を含む運動」と定義されました。

今日私達が言うところのスポーツは近代以降の概念ですが、スポーツ的な身体文化は古くから存在していました。
古代ギリシャではスポーツは音楽・弁論術と並ぶ市民の必須教養でした。人々は彫像として表現される神々の肉体美に近づくため、複数種目に取り組んでいました。また古代オリンピックのような競技会も開かれ、競技の結果によって神々の意向を占うものから死者を葬送するもの、神々に豊穣を祈るものとその意味合いは様々に変化して行きました。しかし都市国家が成熟するにつれて競争としての意味合いが強まり、”勝利”がもつ価値が高まっていくと報奨金を目当てに競技会を渡り歩くプロが登場したり、賄賂が横行するなどそれ以前の文化的価値が失われ腐敗していきました。また、古代ローマでは最初市民の肉体鍛錬としてスポーツが用いられていましたが、軍事力を傭兵に頼るようになったことでその意義が失われ、スパルタカスと呼ばれる剣闘士が死を賭して戦うさまを見せ物にするというスペクタクルとして発展していくことになるなど、聖なるものであったスポーツが俗なものへと堕ちていくという経緯がありました。
中世のヨーロッパでは農民などの庶民と騎士や貴族といった上流階級とで異なるスポーツが発展していきました。この頃が前述した"disport"としてスポーツが捉えられる時代になるのですが、農民などは労働という苦役から解放される楽しみや非日常感、無秩序性に重きを置き、憂さ晴らしとしてスポーツを楽しんでいました。その様子は古代のスポーツの経緯から言うと俗なものであり、具体的にはモブ・フットボールと呼ばれる殴り合いを伴うようなフットボールや動物同士を戦わせるクルーエル・スポーツと呼ばれるものがありました。一方上流階級は金も暇もあるがゆえに退屈という苦役に苛まれていました。そこで自らがコントロール出来ない課題を設定し、それを克服するということに楽しみを見出すようになります。そのために自然環境のもつ不確実性が利用されました。この頃の貴族の間で流行したスポーツにはキツネ狩りがあります。自らの意志とは関係なく動く対象を仕留めるという困難を克服する、それにより退屈という苦役から解放されていたのです。更に長い時間をかけて楽しむため、キツネは生け捕りにするとか、動物を調教してそれにキツネを狩らせるなど縛りをどんどん強めていきます。こういった経緯からスポーツの概念には「野外」だとか「非暴力」といった要素が含まれるようになっていき、それが今日のスポーツ観にも通ずるということになっています。
スポーツ観には上流階級の考え方がある程度現れたものになっていますが、時代の趨勢によって上流階級は没落していき、産業資本家がのし上がっていくことでスポーツの担い手は変化していき、スポーツの発展という面では庶民的な考え方が広がっていくことになります。そして両者は近代になって交わることになります。

なんか思ったより長くなっちゃったので近代以降は次に回そうと思います。

起きると日が高い

こんばんわ。順調に昼夜逆転の長期休暇を送っています。
長期休暇中は火曜日も練習があるので陸上充してます。その後バイトがあったりすると帰ってくるのが日付変わる頃なのでそこから遊んで寝て起きるともう昼だったりするのでご飯を食べてまた競技場へ…とかいう感じですね。

1・2月中は全然思ったとおりの練習が出来なくて、特にシーズンオフ直後に目標として掲げていた110mHの練習が全く出来なかったんですが、先日フリーの日があったのでようやくとりかかることが出来ました。
400mHとハードルの高さが15cmぐらい違うのでやっぱりまだビビって高く飛びすぎてしまうところがありますね。単純に走りの勢いが削がれるしハードル間の走りも辛くなってくるので早めに慣れていきたいところ。あと400mHは1台目21歩で入るんですが110mHは8歩で入らなければならず、奇数歩/偶数歩でスターティングブロックの位置が変わるのが難点。まぁハードラーの宿命ですね。
でもまぁ4台置いてなんとか3歩で走れたので、ちゃんと練習していければ10台全部3歩で行けるんじゃないかなぁと思っております。希望も含め。冬の間に技術練習が積めていれば早くから公式参戦していきたかったのですがスタートが遅れてしまったので9月の理工系あたりでの出場を目標にしたいと考えています。国際総合学類は文系なんでオープンでしか出れないんですが、まさかオープンの110mH無いとかそういう事態は勘弁してほしいな…

それと来シーズンの初戦は4月7日にあるリレー選手権になる予定です。リレーの種目は調整中で、あと個人で100mに出場します。
ようやく公式戦で100mを走る機会が出来たのでそろそろ12"09(-2.0)とはオサラバしたいです。冬練の不安とかシーズン初戦なこととか色々ありますけどそこは去年の伸びでカバーして11"7ぐらいでは走りたいですね。一応去年手動ながら11"57ですし。

最近は朝夕と昼の温度差が激しいんですが、昼は10℃以上まで気温が上がって非常に走りやすいです。スパイクで存分に走れて気持ちがいいです。
これから少しの期間は短めの距離でやって、徐々に伸ばしていく感じになるかと思います。

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プロフィール

HN:
KANI
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上 ゲーム アニメ
自己紹介:
筑波大学に通っております。
同好会で陸上をする傍ら学業をしています。
スポーツに関わりたいと思いつつどういうアプローチをすればいいのか模索中。
一人でいることが多いですが寂しくなんかないんだからね。

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