前回の続きです。
前回は"sport"の語源と、古代から中世にかけてスポーツは野蛮な行いでもって気晴らしをするような俗的なものと、困難な課題を克服することに楽しみを見出しまた威光を示す聖的なものに分かれて発展していったというような話でした。
聖的な系譜をもつスポーツを好んだのは代々土地を継承しているような貴族で、彼らは上流階級に属します。逆に俗的な系譜をもつスポーツを好んだのは産業資本家で、彼らは一代で財を成した中産階級です。上流階級にとっては既得権益を守ることが重要で自由を求めてはいませんでした。中産階級にとっては競争によってのし上がっていくことが重要で自由主義的だったため、彼らは相容れない関係にありました。階級が下にいくにつれてより自由を求めるようになるというのがポイントです。
しかしそんな彼らに共通していた点として、スポーツに"工夫"を求めていた点が挙げられます。金も暇もあった上流階級の人々は、計画を破壊し困難を楽しむ"工夫"を、実力主義の中産階級の人々は計画を成就させ野心を叶える"工夫"をスポーツに求めていました。
やがて両者はパブリックスクールにおいて交わることとなります。
パブリックスクールの"パブリック"というのは上流階級でない人々にも開かれているという意味で、築いた財産を継承していくために教養を求めるということで中産階級の人々もここに通うようになりました。
しかし彼らは休み時間に俗的なスポーツに興じたため混乱を招きました。そこでラグビー校のトーマス=アーノルド校長はスポーツを規制するのではなく逆にスポーツを健全な心身の育成のために活用することにしました。生徒が自らルールを考えだす自治の精神を尊重し、スポーツを気晴らしのためのものから教育のためのものに変えたのです。
こうして生まれた近代スポーツは、上流階級が重んじた自己規律の性格と、中産階級が重んじた自由主義の性格を兼ね備えたものになりました。特に個人主義、アマチュアリズム、政治的中立というのが近代スポーツの主な特徴になります。ただこれらの意味するところは「スポーツは生活が十分に保証されている裕福な人のためのものである」というものです。例えばアマチュアというのは他の仕事によって生計を成り立たせる事を指し、スポーツによって生活をまかなうプロの存在についてはこの頃は否定的でした。
ともあれこうして生まれた近代スポーツはイギリスの世界進出に伴って教育的な意味合いから世界中に伝播していきます。
現代になってスポーツが世界中の人々にあまねく広がると、それにともなってスポーツも変化していきました。
例えば労働者階級のスポーツへの参入です。近代の中産階級は自由主義的な系譜をもちつつもやはり貴族をロールモデルとして捉えていたのに対し、労働者階級は自由主義に特化していたため、自己規律とは無縁でした。そのため貴族の間では自主的に守られていたスポーツマンシップが弱体化し、ルールの細分化や審判の必要性が増大しました。
また、アメリカンフットボールの登場は顕著な例です。アメフトはラグビーを元にしていますが、ラグビーではゴールに向かって前方向にパスするのが禁止されているのに対しアメフトでは前パスが有効です。こうしたルールの違いは自己規律による困難の克服を楽しむイギリスの風土と、制約に縛られない自由なアメリカの風土の好対照だと言えます。スポーツは伝播の過程でその地域の文化に合わせて変化していったのです。
最も大きな影響を及ぼしたのは勝利の社会的価値の増大でした。1894年以降開催されてきたオリンピックのような国際的関心度の高い場で勝敗が競われるようになると、近代スポーツにおいて重要視されてきた個人主義・アマチュアリズム・政治的中立という原則が揺らぐこととなります。選手は集団でのサポートを受けるようになり、またより強い選手を生み出すためにプロ化が進み、また国家の政策としてスポーツが取り入れられていきます。こうした近代的価値の衰退が現代スポーツの土台になっているのです。
現代になってスポーツは様々な意味を持つようになりました。政治的意味、経済的意味、教育的意味…そして様々な面から要請を受けることによりスポーツはその都度変化していきます。つまりスポーツはそれ自体が独立してあることはなく、社会がスポーツを規定するのです。
そして今日最もスポーツに対して影響を及ぼすものとして、僕はメディアに注目しています。
(無駄に引きを意識した感じで)つづく。
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