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B-DIARY

筑波大生のあれやこれ。

   

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近況

放置しててすみません。



県選、16"19(+3.4)で予選落ちと散々な結果でした。
風が強くてハードリングが詰まって浮いた…という言い訳。結局は技術不足ですね。
クラ対までまだまだ気は抜けない。



3連休の前2日で4年連続出場となるリレーマラソンに参加してきました。
今年も10周ちょっとは走ったのかな…?スタート直後は雷雨だったり夜は急激に冷え込んだりとなかなか厳しいコンディションで体力もゴリゴリ削られていき、夜中はちょっとでも間が開くとすぐに寝ちゃうみたいな感じでした。最後の方で足の甲やら膝やらに痛みが出てリタイヤ(歩き)。これまで3年間どれだけ疲れても絶対に歩きはしなかったのに。無念。
長距離チームが2位と大健闘してくれて今年も美味しい焼肉にありつけました。
来年以降OBチームで参加するかどうかについては来年になってから改めて考えようと思います。



リレマラが終わったあと、同期の家で酒を飲んでエアコンの真下で寝たのが祟ったのか風邪を引いてしまいました。ちなみに現在進行形です。
いつも風邪引いても鼻や喉に来る程度なんですが今回は久々に38℃まで熱が上がって思わず二度見してしまいましたね…
この土日ホントは記録会で110mHと2年ぶりの400mHを走る予定だったのですが無念の欠場。なんか筑大競でベストを出して以来大会はおろか練習もまともに詰めていない気がしてかなり不安があります。どうしたものか。
とりあえず体調を万全に整えなければ。てか医者に「エアコンは良くないよ」って言われたけどエアコンつけなきゃ別の意味で死んじゃうのよね…



夏休み、お盆のあたりで10日ぐらい帰省する予定です。
冬は卒論もあるしどうなるかなぁ…
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県選のプラン

主に自分用メモです。

ゼミ合宿がかぶって不参加かと諦めていたですが、先生の都合で1日ズレてちょうど110mHの日にいけるようになりました。まさに神様の思し召しというヤツですね。
去年は実力的にも記念参加みたいなもんで、更に当日強烈な向かい風にあおられて散々な結果でしたが、今年は覚醒回を経ましたので少しはまともな勝負をしたいと考えています。





ところでクラ対の110mH。現状自分がトップではあるのですが後輩の実力的にまだ予断を許さない状況ではあります。
もし走ることになったとして、今まではタイムレースで1本だったのですが今年は予選・決勝にして欲しいと要望を出してみていて、それが通ったら1日に2本走ることになります。
ということで県選はこのことを頭に置いて走りたいなと。





県選は予選・準決勝・決勝とあって、例年のタイムを見るとおそらく16"0で予選通過、15"4~5で決勝進出、15"1~2で6位以内(=関東選手権出場)ぐらいかなと睨んでいます。

そして去年のクラ対の110mH8位も16"0ぐらいだったはずなので、クラ対が予選・決勝になったら通過ラインが県選とだいたい同じと考えることが出来ます。



というわけで、今回の目標は「"準決勝で"ベスト更新(15"6ぐらい出したい)」というつもりでいきたいと思っています。



準決勝でベストな走りをするために出来れば予選はラスト流して通過したいところなんですが、「次のラウンドを見据えて流す」みたいな走りって実はやったことないんですよね…中学時代から思い返してみても、実力的なアレでだいたいいつも予選でベストの走りをしてギリギリで通過して準決勝でタレてお疲れみたいなのばっかりだったので…

それに後輩と並んで走るみたいな特殊な状況なしに自分が15"8という実力のまま走れるかどうかというのもやや不安なところではあります。特に今月前半に風邪引いたりで練習をあまり積めなかったのも不安を助長しています。最近はまた走れてるんですがまだムラががあったり。





まぁでも本番になってスタート前にごちゃごちゃ考えちゃうようだと完璧調子悪いんですよね。淀みなく、清々しく、成り行きに任せて諦めてるぐらいだと調子がいい。そうなれるように準備して、あとは天気と風がよくなるようにお祈りしましょう。

僕が「速い人」になった日

小6、80mH:15"15
中3、110mYH:16"61
高3、110mH:出場なし 400mH:60"03
大1、400mH:58"06
大3、110mH:16"40

どうしようもないほどに僕は凡人だった。



例えば、100mで11"5を切る。
例えば、200mで22秒台を出す。
例えば、110mHで15秒台を出す。

僕の中ではそれが「速い人」の条件で、彼らは自分からは遠く離れた、雲の上の存在のように思えた。



中学の頃から、僕は自分の短距離走者としての身体的素質は乏しいと思うようになった。
天性のバネとか才能とかセンスとかそういうものは自分にはない。「速い人」に憧れていても、心のどこかで自分はそうはなれないのではないか、「速い人」の領域に辿り着くために必要な物を自分は獲得し得ないのではないか、そんなことを思うようになった。
高校で「身体的素質で劣るとしても頭を使って技術で上回ればいい」と考え方を改めるようになっても、それで絶対的に足りないものを補いきれるのかという疑念は拭い切れなかった。
大学に入ってもなお。





今年の1年生はハードラーが多い。
110mH15秒台のベストを持つ人もかなりいて、今まで通りのほほんと走っていてもクラ対には出られないという状況。
あぁ、このままでは「速い人」に蹂躙されてしまうのか…

しかしまぁトラックの上では速ければ正しいわけで、挑戦者という立場にある身としては真摯な姿勢で学ぶことしか出来ない。並んで走ったり、アドバイスをもらったり…
前回書いた悔しいという気持ちを持ちながら速い人から学ぶのはこれ以上ないほどの効果があった。





5/17のスプリングカーニバル、200mの後に走った110mHで16"34(0.0m)でベストをちょっぴり更新。いつも2本目でヘタレるのに、しかもまた前半4台ぐらい浮いて失敗レースかと思ったのに、「なんかベスト出ちゃった」。



それにしても去年のクラ対だってスタートでミスってその後全部台無しにしてることを思えば1台目のアプローチが諸悪の根源であることは疑いようもない。どう修正していくべきか、要は浮いちゃうのがいけないわけだから…

あれこれ考えた結果、浮く=高く跳ぶ原因として踏切位置がハードルに近いのではないかという仮説を立てた。遠くから踏み切れれば低い軌道でハードリング出来る。遠くから踏み切るためにはスタートからの8歩のストライドを調整する必要がある…
しかし、自分の中で「110mHも"走る"競技であることに変わりはない=8歩先にハードルがあるとしても100mと同様の加速イメージで走るべき」というのがあって、110mH用に刻むようなスタートの練習をするのは巨視的に見れば必要な技術なのかもしれないけれどやや抵抗もあるというジレンマがあり…
更に考えた末、スタートで手を置く位置を拳1個分下げるという案に行き着いた。つまり自分だけスタートラインを擬似的に後ろに下げ長い距離を走ることで、100m同様の加速をしながらも8歩目でスイートスポットを踏めるという作戦。女子の100mHで井村久美子さんがやってたみたいな話を聞いたような。自分はそんな大層なスプリントがあるわけじゃないけど、現状それが一番いいように思えた。

何回か試した結果1台目で浮くケースはかなり減って、これで前半の加速が削がれることが少なくなればあるいは、といったところで5/31の筑大競を迎える。





天気は快晴、気温は夏かよってぐらいに高く、筑大競にしては珍しく風も穏やかという絶好のコンディション。体調も悪くない。
10時20分に始まったレース。入りは理想とはややズレがあったものの今までで最も失敗したという感覚が薄かった。そのまま良いリズムで刻むことが出来、16"02(-0.2m)とベストを大幅に更新することが出来た。

しかしこのタイムを見て最初に沸き上がったのは喜びではなく悔しさだった。15秒台が、尊敬する先輩が、すぐ目の前まで迫ってきたのに、あとほんの僅かだったのに…



そんな自分への蜘蛛の糸というかなんというか、今回の筑大競は100mと110mHに限ってタイムに納得がいかなかった人の救済として2次レースが用意されており、これを逃す手はないと考え出場を決意。
レースは2時間後。気温も上がってるし疲れも少しあったため、アップは軽いストレッチとシューズで50mぐらい流しただけ。スタブロ合わせでもハードルを1台も跳ばず、ただ1本に懸ける。

隣のレーンには練習で競い合ってた1年生が来た。正直練習や1本目の走りを見る限りでは勝てそうもなかったけど、それでも負けたくないと思った。

スタートして、1台目を史上最高の形でクリアして、それなのに隣に半身分先行されて、でも負けたくない一心でそいつと同じリズムで、今までにないスピード感で、インターバルを刻んでいって、10台目を跳んだ後バラバラなフォームでゴールに突っ込む。試合の時にしか味わえないこの瞬間が、110mHという競技で一番好きな瞬間だなぁ…



走り終わって、速報板に書かれた自分のタイムは、

15"82(+0.2m)とあった。




たったの2週間で、勝ちたいと思っていた先輩のタイムを抜き、1年生のときに目標としていた同好会十傑に載ることも叶い、そしてなによりも16年間の競技生活で夢見ながらも心のどこかで諦めていた「速い人」になれた。
身体的素質がないとしても頭使って考え抜いてそれを補うというやり方と、後輩に負けたくないという闘争心。さながら今までの積み重ねが結実したかのようだった。



あぁ、本当に、今まで陸上続けてきて良かった。





…シーズン半ばなのに終わったみたいな書き方になってしまうのもどうなんだ。
しかし実を言うと大会後から腰~尻あたりが絶賛筋肉痛で全然動けていないという。次の大会まで1ヶ月ぐらい空くのが救い。

壁を突破したらしたで次の壁が用意されているのが陸上のすごいところで、また後輩もものすごい勢いで突き上げてくるとあっては燃え尽きている暇もない。
「速い人」になった日は、始まりの日でもあった。

200mの話

今月に入って大会2つ出て200mを2回走りまして。

5/4 23"00(+3.5m)
5/17 23"55(+0.3m)

という結果でした。

4日のは追い参とはいえ予想外のタイムでした。
欲を言えば22秒台でタイマー止めたかったんですけどね。
例え参考記録であっても。

17日のは緊張してたのか動きが固くて思ったように走れませんでした。
アップの時点で全力走1本やって刺激入れてもよかったのかなーなんて思ったり。
去年のこの大会では23"70なんでシーズン序盤としてはまずまずでしょう。




200mという競技、僕はハードルがないトラック種目の中では一番好きだったりします。
400m以上の距離は後半体がもたなくなってきてしまい(昔は400m走れてたのになぁ…)、かといって100mは短すぎて技術的な面であれこれ意識する間もなく終わってしまうんですね。
200mはほどほどにフォームや戦略を意識しつつ、またほどほどに自分のスピード持久を活かせるのが好きなポイントです。
思えば中学時代に新人戦の標準を切れたのが110mHと200mでした。
そういえば新人全道の予選で初めて24秒台出して準決勝残ったんだっけな。そんで緊張して爆死だったっけか。




最近200mを走るにあたって、後輩と勝負だーっつってやるようにしています。

以前「大学最後の1年は「悔しい」という気持ちを取り戻そうと思って冬練から意識してきたので」なんてことを書いたんですが、それは取りも直さず今まで人との勝負に対するこだわりが希薄だったことを意味しています。
陸上は記録型のスポーツということもあって、良くも悪くも競技という状況を自分との戦いに転化出来てしまいます。
自分の場合はおそらく高校時代の長期の怪我の頃から自分の走りを磨くことだけを考えるようになり、人に勝って嬉しい・負けて悔しいみたいな、陸上競技をやっている人が当然のように持っているであろう感情がすっぽりと抜け落ちてしまっていたように思います。
「自分が」最高の走りをすることを目指し、それが出来れば自然と勝負の結果もついてくるだろう、もし負けたとしてもまぁそういうことだってあるさ、また自分を高めていくだけだ……そんな思いで高校から、大学に入って以降も競技に取り組んでいたのでした。
またハードルという競技人口少ないものをやっていたため、特に争うこともなく対抗枠に収まってしまっていたのも災いしていたといえばそうなのかもしれません。

やはり大学陸上が終わりを迎えつつあるせいか最近になって抜け落ちてしまっていた感情がふつふつと沸き上がってきたということ、また今までの競技人生で一番競争相手に恵まれていること、こういったところから「後輩との競争」を強く意識するようになりました。
誰かと戦うということを前提として、どれほどの差があるのか、どこで劣っているのか、どうすれば勝てそうか…自分だけを見つめていたときとはまた違った楽しさがあります。なぜこれを見落としていたのだろうか、なぜこの楽しさをあと半年ほどしか享受出来ないのだろうか。




なんとなく先輩を見上げながら走るよりも後輩から突き上げられながら走る方がモチベーションにつながる気がします。
最終学年といえども、いや最終学年だからこそ?後輩から見て存在感のある走りをしたいものです。

聞き手のスキル

「人とコミュニケーションをとる」というのは一方が意図を込めた言葉を投げかけて、もう一方がそれを自己の価値観に沿って解釈し、また意図を込めて言葉を投げ返す…というプロセスを繰り返すゲームだといえます。

このゲームが成立するにはお互いがある程度の共通理解を持っていることが前提条件で、それがないとコミュニケーションエラーが起こってしまいます。
例えば使う言語が違うと上手くいかないでしょうし、また価値観が離れすぎているとそれもまた上手くいかない。

「偏差値が20違うと会話が成立しない」なんて俗説もあります。
僕の知る限りでは東大生も下ネタ大好きなんで事実として言葉通りの意味というわけではないと思うんですけど、意図するところはなんとなく汲み取れる気もします。






コミュニケーションエラーが起こるとき、往々にしてその話題の発話者である話し手に責任があるとされることが多いです。

高校時代の現国の先生が「大人が書いた難しい話を子供でも理解できるように説明出来るようにしろ」とおっしゃっていました。
これ自体はものすごく腑に落ちるんですけど、しかし「話し手が言いたいように言いたくても聞き手に理解されなかったので、理解できるレベルまで言い換えていく」というのは、話し手が本来意図したい内容を削ぎ落とすことになるため遠回りをする負担や言いたいように言えないストレスがかかることになります。
他方聞き手の側からしても話し手に気を使ってもらってるばかりじゃいつまでもレベルの高い会話が出来るようにならないわけで、話し手にばかり責任を求めるのは双方にとって不経済なのではないでしょうか。

一発勝負で答案を叩き付ければいい現国の試験とは違って、コミュニケーションは話し手と聞き手の両方を交互にこなしていくわけですから、コミュニケーションエラーの責任を一方に押し付けるというのはちょっと傲慢な気がしますよね。
ということで、「話し手としてレベルを合わせるスキル」も有用なスキルであることは確かですが、それと同じぐらい「話し手の要求するレベルのままで意図を汲み取れるように聞くスキル」というのを磨く必要があるのかなと。





しかし具体的に何をするかって考えてくと、貧相なアイディアしか出てこなくて自分のバカさ加減が身に染みますね…

まず話し手の側からだとただ話題に沿って話すだけじゃなくて、解釈から意図を込めて発話に至るまでの思考過程なんかを方法論として提示していくみたいな啓蒙主義的な振る舞いをするというアプローチが考えられます。
支配構造みたいなのが浮き彫りになっちゃうのがいいことかと言われると怪しいですけど。

また聞き手の側からはアンテナを高く張ること、興味の幅を広げて嫌悪感のハードルを下げることなんかを意識したらいいのかなと思います。
自分のことを顧みると根っこはどこに出しても恥ずかしいオタクなんですけど、ウェイウェイしたノリもそこまで嫌悪感を抱くわけではないので、そのあたりでネタを仕入れようとする姿勢を失わないようには少し意識しているところがあります。
ただ大別するとポップカルチャーに寄ってて、クラシック音楽だとか美術品だとかのハイカル チャーはわかろうとしても全然わからなくて困ることもあったりで難しいんですけど。

あと嫌悪感のハードルを下げてとりあえず話を聞いてみるというのは他にもメリットがそこそこあって、会話ってだいたい話し手の方がやりたい放題出来て楽しいってのがあるので上手く乗せれば勝手に色んなこと喋ってくれて見識広まったり間が保ったりするし、あと「話し上手」より「聞き上手」っていう方が世間一般的なイメージもいいし、みたいな。ちょっとズルい。





自分も相手も言いたい放題言い散らかせるコミュニケーションというのはとても難しいんですが、理想としてはそうあるべきですし、また実際そっちの方が楽しい。そして技術的にそれに近づいていけるのだとしたらそうするに越したことはないと思います。



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プロフィール

HN:
KANI
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上 ゲーム アニメ
自己紹介:
筑波大学に通っております。
同好会で陸上をする傍ら学業をしています。
スポーツに関わりたいと思いつつどういうアプローチをすればいいのか模索中。
一人でいることが多いですが寂しくなんかないんだからね。

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