「人とコミュニケーションをとる」というのは一方が意図を込めた言葉を投げかけて、もう一方がそれを自己の価値観に沿って解釈し、また意図を込めて言葉を投げ返す…というプロセスを繰り返すゲームだといえます。
このゲームが成立するにはお互いがある程度の共通理解を持っていることが前提条件で、それがないとコミュニケーションエラーが起こってしまいます。
例えば使う言語が違うと上手くいかないでしょうし、また価値観が離れすぎているとそれもまた上手くいかない。
「偏差値が20違うと会話が成立しない」なんて俗説もあります。
僕の知る限りでは東大生も下ネタ大好きなんで事実として言葉通りの意味というわけではないと思うんですけど、意図するところはなんとなく汲み取れる気もします。
コミュニケーションエラーが起こるとき、往々にしてその話題の発話者である話し手に責任があるとされることが多いです。
高校時代の現国の先生が「大人が書いた難しい話を子供でも理解できるように説明出来るようにしろ」とおっしゃっていました。
これ自体はものすごく腑に落ちるんですけど、しかし「話し手が言いたいように言いたくても聞き手に理解されなかったので、理解できるレベルまで言い換えていく」というのは、話し手が本来意図したい内容を削ぎ落とすことになるため遠回りをする負担や言いたいように言えないストレスがかかることになります。
他方聞き手の側からしても話し手に気を使ってもらってるばかりじゃいつまでもレベルの高い会話が出来るようにならないわけで、話し手にばかり責任を求めるのは双方にとって不経済なのではないでしょうか。
一発勝負で答案を叩き付ければいい現国の試験とは違って、コミュニケーションは話し手と聞き手の両方を交互にこなしていくわけですから、コミュニケーションエラーの責任を一方に押し付けるというのはちょっと傲慢な気がしますよね。
ということで、「話し手としてレベルを合わせるスキル」も有用なスキルであることは確かですが、それと同じぐらい「話し手の要求するレベルのままで意図を汲み取れるように聞くスキル」というのを磨く必要があるのかなと。
しかし具体的に何をするかって考えてくと、貧相なアイディアしか出てこなくて自分のバカさ加減が身に染みますね…
まず話し手の側からだとただ話題に沿って話すだけじゃなくて、解釈から意図を込めて発話に至るまでの思考過程なんかを方法論として提示していくみたいな啓蒙主義的な振る舞いをするというアプローチが考えられます。
支配構造みたいなのが浮き彫りになっちゃうのがいいことかと言われると怪しいですけど。
また聞き手の側からはアンテナを高く張ること、興味の幅を広げて嫌悪感のハードルを下げることなんかを意識したらいいのかなと思います。
自分のことを顧みると根っこはどこに出しても恥ずかしいオタクなんですけど、ウェイウェイしたノリもそこまで嫌悪感を抱くわけではないので、そのあたりでネタを仕入れようとする姿勢を失わないようには少し意識しているところがあります。
ただ大別するとポップカルチャーに寄ってて、クラシック音楽だとか美術品だとかのハイカル チャーはわかろうとしても全然わからなくて困ることもあったりで難しいんですけど。
あと嫌悪感のハードルを下げてとりあえず話を聞いてみるというのは他にもメリットがそこそこあって、会話ってだいたい話し手の方がやりたい放題出来て楽しいってのがあるので上手く乗せれば勝手に色んなこと喋ってくれて見識広まったり間が保ったりするし、あと「話し上手」より「聞き上手」っていう方が世間一般的なイメージもいいし、みたいな。ちょっとズルい。
自分も相手も言いたい放題言い散らかせるコミュニケーションというのはとても難しいんですが、理想としてはそうあるべきですし、また実際そっちの方が楽しい。そして技術的にそれに近づいていけるのだとしたらそうするに越したことはないと思います。
改行の仕方をいつもと変えてみました。こっちの方が見やすいかなぁ。
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