という話を同期がするようになってきました。
陸同は3年が幹部代なので、今年で陸上をやめることになる人も多いのです。
止め時を考え始めると、どうして陸上を始めたのかやどうして続けているのかというところまで考えが及んでしまいます。
ある同期は「最高の結果を出すために最後を意識する」と言っていて、なるほど自分にはそういう意識はなかったなと気付かされました。
自分が陸上を続けてきた理由に「そのステージで何かやり残したことがあるような気がする」「まだ自分には伸びしろがあるような気がするし、次のステージでどれだけ伸びるかやってみたい」というのが少なからずあったのですが、終わりを決めずにダラダラ続けてきたからこそ一つの大会に懸ける覚悟が大きくなかったという見方も出来るでしょう。
だからこそ、今度こそ、終わりを決めるべきなのだろうか。しかしその決心がつかない。
思えば子供の頃の自分は、一回組んだレゴブロックとか片付けるのが嫌いだったな。
ここまで積み上げてしまうとそれに対する未練が残ってしまう。
そんな風にしていつまでも走り続けるのかもしれないけれど。
衰えを挙げる同期もいます。
僕が1年生のとき、1個上の先輩が「1年生の頃は練習しなくても走れたのに、今は練習しても走れない…」とこぼしていたのを耳にして、ぞっとした思い出があります。そのときは上り調子だったこともあり、いつか訪れる「衰え」というものに漠然とした恐怖を覚えました。
事実、2年目のシーズンはそれの訪れを感じさせるような、つらい時期でした。
他にも自分の競技者としての天井を口にする人もいる。それは乗り越えるべき弱さかもしれないし、残酷な現実かもしれない。どちらにせよ考えるだけ気が滅入ってしまう。
成果を求めて燃えることもなく、衰えを嘆くこともなく、ただ止め時を見失ったがために走り続けてるのかな…と思いながら練習に行く日もありました。
悶々としながらもハードルを跳んでいると、次第に入り込んでいって、自分の走りについて新たな発見があって、新たな課題が見つかって…
あぁそうか、この瞬間にこそ、これまでの15年を費やした価値があったのか。
それは例えるなら禅問答のようでもあるし、あるいは一瞬の快楽のためにのめり込むさまはギャンブルに近しいものがあるかもしれない。
いずれにせよ思索として楽しみを見出しているあたり、自分はもはや純粋な"競技者"からは程遠い存在になってしまった、いや、そもそも最初からそうではなかったのかもしれない。
しかし競技成績とは別の次元に関心があって、それが体の衰えに左右されないのであれば、止め時を見失ったのも納得がいく。
であれば恐らく発見にも課題にも気付けなくなった時、心が衰えた時こそ、真に止め時が訪れるのでしょう。
まったくとんだ呪いですね。
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