例えばオリンピックが近づく時期に、アスリートと呼ばれる人々を見て私たちは何を思うだろうか。
生まれながらの才能もさながらに、たゆまぬ努力を重ね、挫折にもくじけず栄冠を目指す姿だとか、そういうものを想像するのではないか。
アスリートと呼ばれる人々を見て、そのように想像する…はたしてその順番で本当に合っているのだろうか?
もしかしたら本当は、私たちの想像が「アスリート」を生み出しているのではないか。
いわゆるトップアスリートに限らず、もっと身近なレベルでもそれは起こりうる。
僕の14年も格好の例になりうる。小学校入学とほぼ同時におよそ週3回は走り続けていた。もちろん選んだのは僕自身だから今更そのことについて後悔することもないけれど、機会費用として失ったものの大きさも計り知れないことは心に留めておくべきか。
ステージが上がるにつれて走ることに付随する意味もまた増えてくる。強くなることや勝つことが義務として求められるようになる。
アスリートであれと求められるようになる。
そこで「勝つためには人並みの楽しみを犠牲にしなければならない」という言葉だったのだ。スポーツに青春という時間を捧げられるような純真無垢な競技者を丸め込むのにこれだけの言葉があっただろうか。
「このような練習をしなければ」「このように栄養を摂らなければ」「このように休息を取らなければ」「この日のこの時間は練習をしなければ」「これを買わなければ」
「強くなるために」「強くなるために」
怠惰などもちろん許されず、余暇も趣味もすべて強さの二の次。
すべてを強さのために捧げることこそがアスリートとしての宿命であり、そして強さを得ることのみにアスリートの喜びがある。
それはもはや人を超えた、アスリートという「概念」。
それは経験則や集合知かもしれないが、しかしあるべき論や盲信かもしれない。
いずれにせよそのイメージに、私たちは縛られる。その他のあらゆる可能性をただこのために。
人々の思う「アスリート」とは、人が背負うにはあまりにも重すぎる。
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