人は誰もが得手不得手を持っているものです。
学業の才がある、スポーツが得意、人とコミュニケーションを取るのが上手い、などなど。逆に学業が苦手だったり、スポーツが苦手だったり、人と上手く喋れなかったり、ということだってよくあることです。
こういった得手不得手は先天的なものもあれば環境的な要因もあるでしょう。何がどういう割合だとかそういう話はしませんけど。
人それぞれに上手く出来ることと出来ないことがあって、完璧で全能な人はいないわけです。
得手を伸ばしたり、不得手を克服するのに必要なのはやっぱり"努力"なんですかね。
才能を努力で克服するだとかそういう言説って好きな人多そうですけど、自分の意見としては努力すれば実るものだとは思います。ただ得手を伸ばす努力と不得手を克服する努力ではそれぞれコストが違うということを考慮すれば、の話ですが。
人は生まれたばかりのときには同じ年代の人とどんな分野で比べてもそれほどの差は生まれないでしょう。しかしある分野について先天的な才があったり環境的に恵まれていたりすることで、その分野のスキルを伸ばすのにそれほどのコストがかからないとしたら、それが発展して得手になりうるでしょう。そして逆もまた然りということです。得手は伸ばしていくうちにコツを掴んだりすることでどんどんコストが減っていき、不得手はそれに関わることを避けるうちにどんどんコストが増えていく。そのような循環を繰り返して文化資本が形成されていきます。
得手不得手からなる文化資本をいかにして活用しうるかは大きな問題です。もし自分の不得手な環境に身を置いてしまったとしたら、それを克服するためのコストは莫大なものです。文化資本を共有し得ないがために集団で話が合わないだとか、不得手の仕事を強いられて自分の才を生かせないだとか、そんな環境に長期間拘束されることを想像してみるとそれだけでストレスが溜まってしまいそうです。
そうなるぐらいなら自分の得手を生かした環境に身を置きたいものです。有限の人生において不得手なことにリソースを割いてストレスと闘いながら生きるぐらいなら、コストのかからないことに没頭したいと誰もが思うでしょう。
不得手なことを避けて得手に関わろうとする。それは合理的な選択なのか、はたまた努力が足りない逃げなのか。それは結局社会的な価値とか結果とかそういう目に見えるもので判断されてしまいます。
社会的に価値があるとされているものについては得手不得手とか言ってられずにとにかく出来なければならないと強いられる。学校の勉強とかそうですね。あれはあれで人を測るためのものさしの一つだと思いますが、学校の勉強を不得手とする人にとっては他のものさしで測ってほしい気持ちもあるでしょうねきっと。でもそういう事言うと逃げとか甘えとか言われるんです。
そして得手を主張するなら結果に結びつかなければならない。そりゃまぁ結果も出ずに得手と言い張るのは難しいですけど、物事は因果関係がはっきりしてるものなんてそれほど多くはなくて実際には運とかあったりするわけですが、それでも結果として失敗であればそれが残ってしまうこともあるわけです。プロセスは外から評価されづらいんですね残念ながら。
得手とすることが社会的な価値と噛み合ってることはすごく幸運ですよね。好きなこと得意なことをやっていたら人が評価してくれるわけです。逆に社会的な価値が高いことを不得手とする人は蔑まれてしまうわけです。これもひどい話ですが、もっとも残酷なのは得手とすることが社会的に評価されない事かもしれませんね。これには賞賛も蔑みもなく、無関心だけがある。ないということだけがある。自分の中ではあるはずだと思っていることが他人の中にはない。そんなもの”存在”するんですかねぇ…
したいことをしたいだけしてしぬっていう生き方はとても難しいことなんだと分かり始めました。今までしたいことをしたいだけしてきたことに実はどれだけの犠牲が伴っていたのか、それを誰が受け止めていたのか、そして今度は少しずつそれが自分に降り掛かってくるのではないか。そんな風に思いました。少し大人に近づいたのかもしれません。あーやだやだ。昔は早く大人になりたかったはずなのに今ではやだやだとか思い始めました。責任を負うだけの器がないのでしょう。
これからはしたくないことをしいられる。それに自分を納得させなきゃならない。得手不得手に従って好きなように生きてた時代から、社会が求めるものに合わせて生きる時代に自分を適合させなきゃならない。それが大人になるということだったのかもしれません。あーやだやだ。
もしかしたら「納得させなきゃならない」「適合させなきゃならない」という固定観念に縛られてるだけなのかもしれないですけど、そこから抜け出すという器用な生き方を僕は不得手としているのでした。
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