ホントは月曜日ぐらいに書きたかった話。
月2のオリンピックの授業で外務省の方が「スポーツと国益」というテーマで授業をしてくださいました。
それに関連して、2学期に国際法をちょろっと勉強したのでそれとオリンピックを無理やりつなげてみたというお話です。勉強したてで深い知識がないことはご容赦願いたいと思います。
国際法は主に国際社会における国家間の関係にまつわる規範です。最近はNGOとか多国籍企業とかの非国家アクターも力をつけてきた云々もあるんですが本筋から外れるので割愛。
国際法は国内法と比較して「拘束力が弱い」という欠点が挙げられます。時として大国が国際法を無視することがあるのですが、それに対して効果的な制裁が加えられないという事実からなる批判ですね。これには国際社会において国家の上位に属する「世界政府」のようなものが存在しないことが理由です。
しかし拘束力がないから国際法には存在意義がないという訳ではなく、国際法は広く国際社会において「"法"として認識されている」という事によって国家の政策決定に関して一定の効力を持っています。例を挙げると、例えば大国が強引な法解釈によって自国の国益を増大させようとする時、その法解釈を他国にも認めなければならないという間接的な拘束力などがあります。
「政策決定に関して"一定の"効力がある」と述べましたが、では政策決定に関わる最も決定的な要因が何かというと、これも先に述べた「国益」になります。自国の国益の最大化は政府の努めです。
政策決定に関わる要因は他にも宗教や文化・政治理論など様々なものがあります。国際法もまたこういった要素と並立するものです。なので戦争とかに関しても国際法だけが統制出来る/出来ないという上位の次元にあるわけではないとかなんとか…というのは授業で扱った論文の受け売りであります。そういった諸要因を踏まえた上で、国益を最大化するための政策を打ち出す。たとえそれが法を破ることであっても、法を守るがために国が損失を被るよりはマシということですね。
ところで、オリンピックには「オリンピック憲章」という、オリンピックの理念(オリンピズム)を明記した文章があります。そこではスポーツを通した人間の健全な心身の発達と世界平和が説かれています。
本来オリンピックとはこういった理念に基づいて開催されるべきなのですが、今のオリンピックはもっと政治色の濃いものになっています。
そういう意味では、オリンピック憲章もまた国際法や他の諸要因のように、絶対的な拘束力のない、政策決定の一要因に過ぎないと考えられます。
歴史的事実として、第2次世界大戦の時はスポーツなんて出来ないほどに世界中が戦禍に巻き込まれていました。この頃は戦争での勝利こそが国益だったのでしょう。1980年のモスクワや1984年のロサンゼルスではボイコットによって偏った世界大会となりました。東西冷戦の緊張の中で、ボイコットというプロパガンダからなる国益の前に、世界平和を実現するためのスポーツは中止せざるを得なかったのです。また、2008年の北京では開催こそされたものの、聖火リレーの妨害やデモなど激しい抗議活動も起こりました。
政治という文脈から見て、スポーツは無力なのでしょうか。
これも断言は出来ません。個人的にはしたくないのもあります。しかしまた歴史的事実として、2002年に日韓共同開催のワールドカップがあったように、スポーツが政治的に良い影響を与える例もあるのです。結局国益を考慮する立場から考えなければならないのは逃れようがないことなのでしょうが…
オリンピック憲章に謳われる理念は形骸化しているとも取れるかもしれません。しかし、僕の考えでは、オリンピックは開催されるまでは政治的な文脈の中にありますが、いざ開催され、それぞれのコートでスポーツを通して戦う選手たちには、行われる試合には、なんら政治的な意味や意志は働いていないと思うのです。そしてその場にこそオリンピック憲章に記された平和の理念が生きているのではないでしょうか。そういった価値にもまた「国益」というものを見出していくべきなのではないでしょうか。
なので、オリンピックは開催され続けることに意義があると思います。開催され続けるように、そのための努力をしていくことが政治に求められるのだと思います。
とまぁ、こんなことを考えていると、あまり身近に感じられなかった政治や法の授業がすごく興味深く思えて、国際に来た意義を見つめ直せそうな気がしました。
ちなみにEnglish Discussion Seminarという授業のテストで、こんな感じの話を来週英語でスピーチする予定です。英訳出来る気がしない…
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