自分の言う「スポーツ社会学がやりたい」という言葉が明確なコンセプトを持っていなくて、ただ言葉の響きに逃げているだけという気がするので、漠然とスポーツという言葉から思いつくものを列挙していって、書き散らしながらふらふらと方向性を見出していく、みたいな遊びをしようと思います。なので理路整然とした文章にはならないことを先に断っておきます。
はじめに一番の原点として、自分はスポーツがそれなりに好きです。スポーツだけに生きるわけではないなという自覚はあります。それでもやはり見るにしろやるにしろスポーツは好きです。もちろん得手不得手はありますが。
と、同時に、スポーツというものにある種のおこがましさのようなものも感じています。スポーツそれ自体は生存本能に直結するわけではなくて、ホイジンガが言うように「遊び」なんですよね。日々を生きる事に精一杯だったらスポーツなんてものはそもそも存在し得ない。スポーツは享受出来る人とそうでない人がいます。
なぜそういった差が生まれるのか、スポーツを享受する理由とは、スポーツを享受「出来てもしない」理由とは、スポーツが人々に果たす役割とは…このあたりは面白そうです。
話は変わって、スポーツの祭典と言えばオリンピックですが、これについても幾つか考えていることがあります。
まずオリンピックは「西洋的な」スポーツの祭典だということです。五大陸を模したロゴを掲げていながらも、実態はほとんどが西洋発祥のスポーツであり、また本当に世界中の国すべてが参加しているとは言えない、はず、です。具体的なデータが無いので言い切らないことにします。
また、1972年のミュンヘンオリンピックにおいて、ブラック・セプテンバーというパレスチナゲリラがテロ行為を行ったという事件があるのですが、その中のテロリストの証言に「スポーツは西側諸国が生み出した新たな宗教だ」とあるそうです。僕はこれを否定しきれません。先に言ったことからもオリンピックはオリエンタリズムを内包しているのではないかと思いますし、それは宗教と表現されてしまうほどのことなのかもしれません。
それと先日ついったーでぼそっと言ったことなのですが、西洋的なスポーツはほとんどすべてが特定のコートを必要としていて、自然と共生していないのではないかという仮説を持っています。そうだとすれば、スポーツの輸出は輸出先の自然環境に変化をもたらし、場合によっては文化の破壊につながることになります。ちょうどキリスト教の「啓蒙」のように。この観点からもスポーツの宗教性が際立つことになります。
見方を変えてマラソンや水泳というものを考えると、これらはただ「やる」ことについて言えば環境への変化はそれほどないままに輸入出来るかもしれません。しかし競技性を求めるとなれば一定の枠組みが必要となります。競技性の有無によるスポーツとはなんぞや論も追求していく必要があるでしょう。
オリンピックについては今学期月曜2限で「オリンピック」というそのまんまな授業を受けていまして、例年がどうだったのかは知りませんが今年の授業では2020年の東京招致が話題となってオリンピック招致に関する授業が多いです。
オリンピック招致は開催する都市の市政として行われますが、結局予算的に厳しく、またやはりオリンピックは全国的な関心事でもあるので、バックには国が控えているという構造になっています。都知事は乗り気で都民はそうでもない、といったようにオリンピックによって影響を受ける層と招致のために主体として動く層にはギャップがあります。そのことが招致活動自体にも影響を及ぼすのかもしれません。
このオリンピック招致について、僕としては2020年までに東北の復興を進めた上で、震災から立ち直ったことを国際的にアピールすると共に、オリンピックによる経済効果でもって不況だなんだの暗いムードをはねのけるという点から賛成という意見を持っていて、そういう感想文を授業で提出したりもしました。しかし昨日の授業でまさにこの「国威掲揚」と「経済効果」が日本のオリンピック招致政策の柱になっていて、かつそれはおかしいという指摘を受けました。
確かにオリンピックにはこういう効果はあるんですよ。1936年のベルリンオリンピックはヒトラーの政策で選手育成にかなり力を注いでいて、当然表彰台も独占して国としてのドイツの強さを国際的にアピールする結果になりましたし、1964年の東京オリンピックではそのために東海道新幹線を始めとするインフラや放送技術などが整備されたことは事実です。オリンピックは招致は市政であっても開催は国政になるので、国の予算を使って市政の限界を超えた大規模な都市開発が出来るんですね。だから最初からそういう効果だけを望む招致政策も過去にはあったようです。
しかしオリンピック招致に最も求められることはやはりそれがスポーツであるということです。そしてスポーツを通したオリンピズムの体現こそが目的であり、それはスポーツを通した健全な心身の育成と世界平和の構築である。ということを念頭に置かなければなりません。そういった理念の体現こそがオリンピック開催の目的であり、あくまで国威掲揚や経済効果は二次的なものであるというスタンスを崩してはならないのです。
オリンピックはスポーツのロールモデルとして、また社会に及ぼす多大な影響からも、学ぶには格好の材料と言えるでしょう。
「健全な心身の育成」に「青少年の」とつけばスポーツ少年団の理念になります。スポーツ少年団はスポーツ振興政策のうちの草の根レベルの活動と言えると思います。
実際の活動としてはリーダー研修会というものがあって、座学やスポーツ交流などから構成される研修を通して小5~中3はジュニアリーダー、高1~大学生はシニアリーダーという資格を取ることができます。それぞれの資格を持っていると、研修の運営も行うようになります。それとシニアリーダーは少年団の指導者となる際に指導者講習を受けずになることが出来るという特典もあります。
学ぶ内容としては座学は「スポーツ少年団とは」「リーダーとは」「グループの育成とは」など。スポーツ活動は子供を対象とするため、分かりやすさや安全さ・性差・発達度等を考慮したゲームの構成と実践といったようなことを学びます。そういった知識や経験を生かして自分の所属する少年団に戻ったときに団員にスポーツの魅力を伝え、新たなリーダーを育成していくのが僕達の使命でもあります。
スポーツ少年団も研究対象としてはかなりいい素材ですが、それに関連する「総合型地域スポーツ」もまた魅力的な素材です。
総合型地域スポーツはドイツでかなり発達している形式で、例えて言うならば現存するスポーツクラブや少年団、はたまた部活動までもをさらに大きなカッコでくくるようなものです。その大きなカッコである地域クラブに地域の住民(子供からお年寄りに至るまで)が属すことになり、自分がやりたいスポーツを、やりたい時間、やりたいレベルに合わせて自主的に選べるようになるという仕組みです。
地域住民がクラブを構成するため、スポーツに対する意識の向上が望まれます。また、地域スポーツ・生涯スポーツという印象が強いかと思われますが、クラブを選ぶ主体も地域住民である=指導者を選ぶようなるという点から指導に競争原理が生まれ、競技レベルの向上も望まれるという指摘もあります。
地域スポーツという下からの意識向上は先に挙げたオリンピック招致における意識ギャップを埋める手立てとなる可能性もあります。また、そういった意識の中にこそ一番最初に挙げたスポーツを享受する理由やスポーツが人々に果たす役割というものも見えるのかもしれません。
結論としてはミクロなレベルとしての総合型地域スポーツになにか手立てがありそうですね。
総合型地域スポーツとは一体何か、社会にどういった影響を及ぼすか、他のスポーツイベントとの関連とは…なんとも面白そうなトピックにみちみちているような気がします。
あとはこれを大学での生活に組み込んでいくだけです。正直クリティカルヒットな授業はなかなか取れないものですが、そういった部分は独学で補うしかありません。むしろ求められるのは他の分野の知識からこういった分野へフィードバック出来る力を養うことだと思っています。学際教育だからこそ軸足をしっかり据えて、その上で幅広い知識をつけていかなければならないと思います。
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