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B-DIARY

筑波大生のあれやこれ。

   
2012年03月の記事一覧

1年目

年末に渡されたバトンを繋ぎませんとね。

月毎に辿ろうとすればそこそこ色々な思い出もありますが、1年通してずっと頭に残り続けていたことは年末に書いたこの文に集約されているように思います。

>しかし今考えると受験期の自分は「大学」というものについてなにも考えてなかったなーと思います。期待を抱くこともなく、準備を整えることもなく、ただ時 間とともに流れてくるものを捌ききっていたような、そんな感じで大学生活は流れていっていたように思います。それはそれで楽しいものでしたけどね。

高校時代の自分は色々と言っていましたが、突き詰めていくと大学で学ぶことがどういうことなのかとか、国際関係学とはどんなものなのかとか、そういう具体的なことについてはあんまり考えてなかったように思います。理想だけはいっちょ前でも、現実的な話に結びついていなかった。
だから実際に授業を受けてみて、やけに戦争の話ばっかりだったり、そういうネタについて自分が予想以上に興味がなかったり、興味がないものだとこれまた予想以上に熱の入らないものだったりということに気付かされました。それでも授業をサボってまですることもなく、結局授業には出て、出ればそれなりにノートは取ったりなんかして、淡々と捌いていくだけの日々が過ぎる。受験期に論述で培った目がそれなりに仕事をしてくれ、なんとなく要点のようなものだけはつまんで、学問として深く掘り下げることはあまりしないというような形で、テストを受け、成績が出て、なぜかそれなりに高い評価を受けてしまう。
不当に高い評価を得ると「よいこですね」と煽られてるようにしか思えないですね、思い上がりも甚だしいんですけど。そしてどんなことにでも真剣に取り組もうだとか、そんな熱意もキャパシティも自分にはないことが改めてわかりました。

反面、興味のある分野はそれなりに取り組んできました。そしてはっきりと、自分の体専コンプレックスを自覚しました。
きっと何年も前から、多分中学生ぐらいの頃にはもう、自分は勉強なんてしたくなかった。陸上がしたかった。走るだけで、走ることだけを考えて人生を組み立てたかった。しかし自分は陸上でスターになれるだけの素質には恵まれてなくて、別に好きでもなんでもない勉強のことでばっかりほめられた。好きなことで結果が出せないことが悔しかった。それを未だにコンプレックスとして引きずっていて、勉強なんかできなくてもいいから速く走れたほうがずっとよかったなんて今でも本気で考えている。なんとも女々しい話です。
なりたくてもなれない、なれないけどなりたい。そんな思いを中途半端に引きずっているから、筑波大学を選んでしまったのかもしれない。高校時代の志望動機は、実は言い訳に過ぎなかったのかもしれない。高校時代の自分が本当に行きたかったのは筑波の体専で、そこに行くだけの力がないからせめて筑波大学だけにでも行きたかった。そんなところなんじゃないか。もはや筑波ならなんでも良かったんじゃないか。そんな程度の信念で、4倍の門を通ってここに来てしまったのか、親に迷惑をかけてまで。

自分は陸上だけで生きていくことはできない。だけど陸上を諦めることができなくて、他のものは色褪せて見えてしまう。
そして極めつけに自分には状況を一変させようというだけの気概もない。そんなに体専が良かったら受験しなおせばいい、学費は自分で稼げばいい。そういう選択肢だってあるのに、ゴネてるだけで何もしない。受験期には色々とカッコつけたことを言ってたけど結局自分は4年で大学を出て社会に出るのだろう。それはきっと「社会がそうなっているから」で、自分で選ぶとかなんだとか言ってたのも全部嘘で、「大人たちにほめられるようなバカ」まっしぐらなわけで。

社会がそうなっているから大学に進学し、未練にすがってこの場所に決め、自分に出来ることの中からやりたいことややるべきことを見出すことを放棄してきた。だから「お前は筑波へ何をしたくて行ってるんだ」という問いに答えられなかった、何も考えちゃいなかったから。それでも成績の上ではよいこちゃんになってしまって、不当な評価をされる。自分なんか誰よりも志が低いのに。口で理想を言うばかりで何も行動しようとなんかしちゃいないのに。
大人の秘訣は諦めることらしい。もうわがままを通せる歳でもなくなってきたのかもしれない。甘えやプライドは捨てて割り切りを身につけなければならないのかもしれない。夢を語るのはもうやめにして地に足つけなきゃならないのかもしれない。



まぁ、悶々とこんなことを考え続けていた1年でしたかね…
自分についての理解が深まったとか言ったら聞こえはいいですけどね。遊んでたっちゃ遊んでたのかもしれないですね。
2年次ではもう少し外に目を向けて、やるべきことを探せばいいんじゃないかと思います。
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スポーツと総復習 その4 これからのスポーツ

いよいよ最後になります。
スポーツはそれだけで独立した存在足りえず、様々な圧力を受けて変化するものという話をしてきました。
スポーツはこれからどんな変化をしていくと考えられるのか、今日はそんな話をします。

現代スポーツの特徴は「個人主義・アマチュアリズム・政治的中立」という近代的価値の衰退と、高度化・大衆化という垂直・水平の二方向への拡大という2点です。前者については既に触れましたね。

後者の、まずスポーツの高度化について。これは競技力の増大、エリートスポーツの発展と言い換えられます。スポーツの競技性が高まったことで、所謂"虎の穴"が出現することになります。つまり子供のうちからトップアスリートとしてのエリート教育を施すわけです。卓球では小学生のナショナルチームを結成し、全国から有力な選手を集めて一貫指導するというシステムが10年ほど前から整っているそうです。更に有望な選手は青森山田高校に集められるなど、進路の面でもレールが出来上がっているとか。陸上も小学校高学年ぐらいから地方陸協でS・A・B級というように選手をランク付けし、合宿を行うという方式が取られていますね。「世界で一流を目指すためには生活の全てをスポーツに注ぐ時代」。そんなことも言われているようです。
しかしここで考えなければならないのは選手のセカンドキャリアです。スポーツ選手のピークは種目にもよりますがおおよそ30代です。36歳にして100mを10秒前半で走った朝原宣治や、47歳まで現役ピッチャーとして投げ続けた工藤公康などは稀有な例と言えます。一方一般サラリーマンの定年は60歳とか65歳なわけで、スポーツ選手として生きてきた期間以上に働かねばならない期間があるのです。
有名選手であれば解説者などになれることもありますが、やはり引退者の数に対して雇用の枠は限られているのが現状です。まして一般企業であれば、今までスポーツだけに打ち込んでビジネススキルがない人をわざわざ雇って再教育するというようなプロセスは取りたくないはずです。
以前為末大は海外のスポーツ選手がオフの時間に経済や法を勉強し、引退後にそういった方面で活躍していることを挙げ、セカンドキャリア問題に対する選手自身の意識について提起していました。ある程度までは選手の自己責任と言える面もありますが、やはり社会の構造が引退後の選手に対して厳しいのは事実です。そしてそれはスポーツ選手を「スポーツに専念するのが当然の人」というように捉え、過度な期待の眼差しを向けてしまう私達にあるとも言えるのです。リスクを恐れてアスリートを目指そうとする有望な選手が減ってしまうことを避けるため、社会の仕組みとしてセカンドキャリアが保証されているという事実が必要なのです。

スポーツの大衆化はその名の通りスポーツの担い手が老若男女へと幅が広がったことを指します。またスポーツを競技としてではなくレジャーや教育、健康のために行うなど、その意義も幅が広がりました。特にレジャーとしてのスポーツは前述の雇用を広げる意味、また文化戦略としての意義が高いため注目すべきところですね。
担い手が広がったと言われる一方、最近では子供の運動離れも取り沙汰されています。小中学生を対象にした調査で、男子の1割、女子の3割が週に60分未満しか運動していないという結果が出ています。この背景には多忙な現代的生活スタイルによるもの、例えば朝食を食べていないだとか、睡眠時間が短いといったことも関係していると言われています。また近年は就職難や高学歴化によって学業の地位が相対的に上がったこともスポーツにとって逆風なのではないかと思います。
学生のうちは少なくとも体育の授業で運動をするわけですが、ここで個人的な不満を述べさせてもらうと、体育の授業って努力神話が未だに根強いのではないかと思います。努力神話というか苦行主義というか、とにかくつらいことを乗り越えるのが美徳みたいな雰囲気ですね。評価をつける手前難しいとは思いますがもっとゲーム性に富んだカリキュラムで楽しませることを第一にしてもいいんじゃないかと思います。
まぁなにが不満かってはっきり言うと体育の陸上って面白くないんですよね。ただ走って体力を競うだけなので。しかし陸上をやってる身からすれば最大公約数的な「速く走れる方法」はそれなりにあるわけで、そういうのをちゃんと授業で体系づけて教えればまだ楽しくなるとは思うんですけど、体育の授業で走り方を習うことってほとんどないですよね。ただ走ってタイム測って終わりなんです。そんな陸上は楽しくないです。速く走れるようになるからこそ楽しいのに、速く走らせようという気がない。そういった体育の授業を受けて陸上が嫌いになる人が生まれ続けてるのだとしたら悲しい事だと思います。
子供の頃に運動なんてかったるいな~という意識が根付いてしまったら、大人になって健康のために!とか意気込んで運動しようと思っても続かないと思うんですよね。子供の頃は評価のために、大人になって健康のために。そんな風に「なにかのために」やるスポーツはあんまり楽しくないと思います。やはりスポーツは自発性を伴う遊びなわけで、そういったものであるということこそを大衆に広げていくべきだと思うんですけどね。

2011年はスポーツ界にとって大きな出来事がありました。それはスポーツ基本法の制定です。これによってスポーツをすることが人々の権利として法律で認められ、またあらゆるスポーツ政策における法的な基盤が出来ました。
その中でも附則の部分でスポーツ庁について検討を進めると書いてあることには大きな期待が寄せられます。文部科学省の中で文化財の保護など芸術系の活動には文化庁という庁があって、予算も1000億規模でつけられています。一方スポーツについては局があるのみで、予算も300億に満たないほどです。スポーツ庁が成立すればそれだけ多くの予算がつけられることになるので、今後のさらなる発展が見込まれます。
しかし2011年にあった大きな出来事といえばやはり震災です。あれによって私たちは生きるということそれ自体について考え直すことを余儀なくされています。そのときスポーツの立場はどうなるのでしょうか。繰り返しになりますがやはりスポーツというのは遊びであって、生きるということに直結するものではないのです。したがって国から予算をつけてもらうにあたっては人々の理解を得るのに苦労することになるでしょう。人が生きるということに対してスポーツが貢献できることとはなんなのかを真剣に考え、取り組まなければならないのだと思います。



これでだいたい書きたいことは書きました。
随分長々と、しかも話題があっちゃこっちゃに行って見づらい文章になってしまったと思いますがこんなのでも楽しんで読んでいただけたのならば幸いです。
スポーツという軸からあっちゃこっちゃに行くことで学際性とかいうものを表現したかったのかもしれません。国際総合学類にいながらにしてのあがきを表してみたかったとでもいうような。
総復習と題して書いたものですが、書く前に想像していた以上に書いてる間は苦戦しました。わかっていることを書くつもりが、書けば書くほどにわからなくなる。授業を理解してないというわけではない(と思いたい)のですが、曖昧な表現に逃げるたびに勉強不足ということを実感しました。投げ出しそうにもなりましたが、自分が「わかってない」のだということをわからせるためのけじめとして最後まで書き上げてやろうとだけは思いました。
来年もし同じようなことをやるとしたら、もうちょっとマシな文章を書きたいですね。

スポーツと総復習 その3 スポーツとメディア

続きです。今までは歴史の話でしたが、今回は現代の話。
これまでもスポーツのあり方はそのときそのときの社会のあり方によって規定されてきたのですが、現代ではメディアによってスポーツが大きく姿を変えています。

近代以降のスポーツにおいて"勝利"のもつ価値が増大したことは前回触れましたが、それによってスポーツの試合は応援している側への帰属意識を強く喚起するものになりました。例えばオリンピックのような国別対抗戦では国民のナショナリズムを呼び起こすものとしてスポーツは捉えられました。
メディアもまた戦争期の頃に国民のナショナリズムを呼び起こすものとして利用されました。当時だと新聞やラジオですね。
人々をなにか1つの方向にまとめ上げるものとしてのスポーツとメディアの親和性の高さをうかがわせます。

世界規模のスポーツイベントと放送の技術革新はシンクロしながら進行して行きました。テレビの発明や衛星放送の発達は臨場感あふれる映像を世界中に発信出来るようになり、またリプレイを参照できるようになったことは試合中のジャッジの精度向上に貢献するなど、互いに良い影響を与えてきました。
経済的な面についてもスポーツとメディアは密接につながっています。メディア側は文化事業戦略としてスポーツの価値を高く評価しています。「事実は小説よりも奇なり」で、どんでん返しがあって先の読めないスポーツはコンテンツとしての魅力が大きいですからね。そしてスポーツ側もメディアに放映権料という試合の放送を独占出来る権利を売ることによって財源を確保しているのです。

このようにとても仲良しに見える両者ですが、この構造には落とし穴があります。スポーツ側は財源の多くをメディアに依存しているのに対し、メディアはスポーツ以外にも多様なコンテンツを取り揃えているため選択肢が広く、相対的にメディアはスポーツよりも高い地位にあると言えます。スポーツはメディアに頼らざるを得ないのですがメディアはいざとなったらスポーツを切っても大丈夫ということです。そしてこの上下構造はスポーツ界にとって良くない影響を与え始めています。
1つはルール改正です。現在のスポーツのルールには「放送時間枠の関係で」改正されたものが少なくありません。
古くはバレーのラリーポイント制ですね。今ではなんの違和感もなく受け入れていますが、昔はサーブ権があるときのみ点が入るサイドアウト制が取られていましたが、これでは試合時間が長すぎるという理由から現在のようなラリーポイント制に変わったのです。
また最近の例だと陸上競技のフライング一発失格も放送時間枠への考慮から取り入れられたものです。まぁ昨年の世界陸上でボルトが失格になってエンターテインメント性が大きく損なわれたからこれについてはもう一度考えなおそうかみたいなメディアのご都合主義な茶番もあったらしいですが…
ちなみにフライングについてはこちらで記事を書いてるので見ていただけると嬉しいです。今回の記事ではメディアによるルール改正を「良くない影響」と表現してはいますがフライングについてはここにある通りルール改正受容側ですね。これについては号砲通りに出ることも含めて競技力と考えていますので。
放送時間枠の影響に関して僕が最近知って驚いたのはテニスのデュース廃止というものです。確かに40-40からのアドバンテージのやり取りは時間がかかるものですが、テニスをしている人から言えばデュースがあることによって生まれる駆け引きもあるとのこと。確かに劣勢の状態でも40-40までこぎつければ相手をゲームポイントから1つ遠ざけることが出来るというのは精神的に大きいだろうと思います。デュースが廃止されればとにかく先行逃げ切りになってしまいますもんね。
ルール改正は哲学的な問題をはらんでいるように思います。デュースが廃止されたテニスが続けばテニスはデュースがないものとして人々に受け入れられ、それに合わせた戦略が生まれる。これはテニスが進化したものなのか、それともテニスではないなにか別のスポーツなのか。どこまでがテニスとしてあるべきルールで、どこまでがなくなってもテニスとして受け入れられるルールなのか。なにをもって"テニス"を定義するのか…
ここで1つスポーツとまったくかけ離れた例を出します。現在世界中で英語が使われていますが、これによって他の言語がなくなってしまうのではないかという問題があります。あまりに話者が少ない言語は消滅危機言語と呼ばれていますが、私達が使っている日本語などもやがて英語の圧力に押されて消滅するのではないかという言説さえあります。まぁ突拍子もない話だとは思いますが、日本においても標準語の圧力によって方言が廃れたことや、英語教育の早期化が進んで国語力の低下が謳われていることなどを鑑みるとあながちトンデモ理論ではないようにも思えますね。
こういった英語による文化侵略から言語を守るために、例えばフランスではトゥーボン法というフランス語の使用に関する法律なんてものがあり、公共の場では英語ではなくフランス語を使うように法律で定めてしまっているそうです。
話を戻しまして、こういうのをスポーツに応用するとどうなるんだろうなーとか思うわけです。スポーツにおける法律というとルールですが、そこでそのスポーツの定義を書いてしまうことでメディアの圧力にも屈しない体系が出来上がるのではないか…なんて。しかしルールを執行するものがスポーツの側に内在する以上、やはりメディアが上位に位置するという構造に変わりはないわけでやっぱり上手くいかないんですかね…

もう1つの問題としてスポーツ選手のタレント化が挙げられます。女子サッカーチームがW杯で優勝したあと「なでしこジャパン」の名が一気に広まり、それだけで価値を持つようになって、選手がバラエティ番組に出るようになったりしましたよね。
注目が集まるものをメディアは欲しがるわけですから、スポーツの場面で名声を上げた選手などは格好の的だと言えます。スポーツの場面でコンテンツ化した選手を、スポーツ以外の場面でも別のコンテンツとして扱うことで更に稼ごうというわけですね。殊にスポーツ選手は人並み外れた能力を持つというイメージがあるため、日常生活を映して一般の人々と近い次元に立たせることによってギャップが生じて興味を惹くんだとかなんとか。「普通」であることが逆にウケるみたいですね。
メディアの露出が増えるに連れアスリートとしての本分である練習が疎かになったり、また過剰なプレッシャーがかかることにもなります。特に後者について今のアスリートはメディアトレーニングというものを受けるそうです。インタビューでの受け答えなどについて勉強するんだとか。

スポーツにとってメディアは「厄介なお友達」だといえます。色々と迷惑をかけてきますが、いいところもあるし結局縁は切れないのです。
これから先スポーツはメディアとの付き合い方を考えていかなければなりません。様々な圧力を受ける中でスポーツの本質というものを明らかにし、少しでも独立した地位を築けるような努力が求められます。
そんなこんなで最後はこれからのスポーツについて書こうと思います。

体の要

続き物はちょっとお休みさせていただいて軽いご報告(?)だけ。

1週間前ぐらいから腰が痛くて、その時は筋肉痛も併発してたのであんまり気にしなかったんですがどうも腰の痛みだけ抜けなくて今日の練習でも走りながらなんか力が入らない感じがして、とりあえず練習後に病院に行ったら軽いヘルニアだって言われました。
ヘルニアというか椎間板が少し薄くなってるとかそんな感じらしく、手術だなんだみたいな話にはまだならないみたいです。今日は鎮痛剤と貼り薬だけもらって帰って来ました。

直接的な原因があるとしたら筋肉痛の原因にもなったジャンプトレーニングかなと思います。そこから突き詰めると自分の体力不足でもあるんですけど…
それとパソコンで遊んでる時や勉強(この頃はまったくご無沙汰ですが)してる時の姿勢の悪さが慢性的に悪影響を与えていたのかもしれません。気づいた時にはだいたい手遅れってねー。

痛みに波があるとのことだったのであんまり無理はせずに、とのことでした。
今まで所謂「持病」的なのはあんまり持ったことがなかったんですがこれは結構長い付き合いになるヤツかもしれませんね…ストレッチとかもこのあたりを意識して作りなおさなければならないんですかね。あとサポーターとかも買ったほうがいいのかしらん。

リレー選手権はちょっと暗雲が立ち込めてきた、って感じですかね。
成果が望めないなら無理して走ることもないなと。リレーに出れなくなったらそれはそれで残念ですが。
思うようにタイム上がらなくてもやもやしてた矢先にこれで更にもやもや。調子の良かった昨シーズンを思うと焦りも加速してきます。クラ対でマイルを走った自負心とかも考慮に入れると尚の事。
しかしまぁ、現状をあるがままに見なければならないのだろうなと思います。

スポーツと総復習 その2 スポーツの源泉~近代以降~

前回の続きです。
前回は"sport"の語源と、古代から中世にかけてスポーツは野蛮な行いでもって気晴らしをするような俗的なものと、困難な課題を克服することに楽しみを見出しまた威光を示す聖的なものに分かれて発展していったというような話でした。

聖的な系譜をもつスポーツを好んだのは代々土地を継承しているような貴族で、彼らは上流階級に属します。逆に俗的な系譜をもつスポーツを好んだのは産業資本家で、彼らは一代で財を成した中産階級です。上流階級にとっては既得権益を守ることが重要で自由を求めてはいませんでした。中産階級にとっては競争によってのし上がっていくことが重要で自由主義的だったため、彼らは相容れない関係にありました。階級が下にいくにつれてより自由を求めるようになるというのがポイントです。
しかしそんな彼らに共通していた点として、スポーツに"工夫"を求めていた点が挙げられます。金も暇もあった上流階級の人々は、計画を破壊し困難を楽しむ"工夫"を、実力主義の中産階級の人々は計画を成就させ野心を叶える"工夫"をスポーツに求めていました。
やがて両者はパブリックスクールにおいて交わることとなります。

パブリックスクールの"パブリック"というのは上流階級でない人々にも開かれているという意味で、築いた財産を継承していくために教養を求めるということで中産階級の人々もここに通うようになりました。
しかし彼らは休み時間に俗的なスポーツに興じたため混乱を招きました。そこでラグビー校のトーマス=アーノルド校長はスポーツを規制するのではなく逆にスポーツを健全な心身の育成のために活用することにしました。生徒が自らルールを考えだす自治の精神を尊重し、スポーツを気晴らしのためのものから教育のためのものに変えたのです。
こうして生まれた近代スポーツは、上流階級が重んじた自己規律の性格と、中産階級が重んじた自由主義の性格を兼ね備えたものになりました。特に個人主義、アマチュアリズム、政治的中立というのが近代スポーツの主な特徴になります。ただこれらの意味するところは「スポーツは生活が十分に保証されている裕福な人のためのものである」というものです。例えばアマチュアというのは他の仕事によって生計を成り立たせる事を指し、スポーツによって生活をまかなうプロの存在についてはこの頃は否定的でした。
ともあれこうして生まれた近代スポーツはイギリスの世界進出に伴って教育的な意味合いから世界中に伝播していきます。

現代になってスポーツが世界中の人々にあまねく広がると、それにともなってスポーツも変化していきました。
例えば労働者階級のスポーツへの参入です。近代の中産階級は自由主義的な系譜をもちつつもやはり貴族をロールモデルとして捉えていたのに対し、労働者階級は自由主義に特化していたため、自己規律とは無縁でした。そのため貴族の間では自主的に守られていたスポーツマンシップが弱体化し、ルールの細分化や審判の必要性が増大しました。
また、アメリカンフットボールの登場は顕著な例です。アメフトはラグビーを元にしていますが、ラグビーではゴールに向かって前方向にパスするのが禁止されているのに対しアメフトでは前パスが有効です。こうしたルールの違いは自己規律による困難の克服を楽しむイギリスの風土と、制約に縛られない自由なアメリカの風土の好対照だと言えます。スポーツは伝播の過程でその地域の文化に合わせて変化していったのです。
最も大きな影響を及ぼしたのは勝利の社会的価値の増大でした。1894年以降開催されてきたオリンピックのような国際的関心度の高い場で勝敗が競われるようになると、近代スポーツにおいて重要視されてきた個人主義・アマチュアリズム・政治的中立という原則が揺らぐこととなります。選手は集団でのサポートを受けるようになり、またより強い選手を生み出すためにプロ化が進み、また国家の政策としてスポーツが取り入れられていきます。こうした近代的価値の衰退が現代スポーツの土台になっているのです。

現代になってスポーツは様々な意味を持つようになりました。政治的意味、経済的意味、教育的意味…そして様々な面から要請を受けることによりスポーツはその都度変化していきます。つまりスポーツはそれ自体が独立してあることはなく、社会がスポーツを規定するのです。
そして今日最もスポーツに対して影響を及ぼすものとして、僕はメディアに注目しています。

(無駄に引きを意識した感じで)つづく。

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プロフィール

HN:
KANI
年齢:
20
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上 ゲーム アニメ
自己紹介:
帯広生まれ。
札幌南高校出身。
現在は筑波大学国際総合学類。

同好会で陸上をする傍ら学業をしています。
スポーツに関わりたいと思いつつどういうアプローチをすればいいのか模索中。
一人でいることが多いですが寂しくなんかないんだからね。

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